千曲万来余話その649「モンテヴェルディ曲オルフェオ、泣かせの天才って・・・」

 クラシックの道に入るに、小学生の頃ピアノをバイエルで始め高校生ではコンコーネ教本を歌唱してイタリア歌曲を身に着けていた。特に楽譜を「固定ド」で読み始めて、歌唱においては「移動ド」読みを実践していた。「移動ド」というのはニ長調の場合レミ嬰ファソラシ嬰ドレをドレミファソラシドという具合である。レから始めてレでもって長音階を歌唱する。楽譜の読み方は、長調ではレがドになるというと、経験のない方は、あんた何言ってんの、という世界の話でそれはちょうど敗戦決した日の事を「終戦」と言い換えるのに似ている。推定320万の民、アジアの地域ではその10倍?ほどの人々が戦争の犠牲になられた歴史を忘れることはならないだろう。
 「移動ド」で慣らされていて、大学での「ソルフェージュ」を受講して出会いは「固定ド」唱法である。ハンガリーのコダーイシステム音楽教育などでは、五線譜を「固定ド」でもって歌唱するのが一般的、2年間移動ドで身につけていた歌唱法が、固定ドで楽譜を読む訓練に変換され実践していた。
 クラウディオ・モンテヴェルディ1567~1643は北イタリアのマントヴァ、ルネッサンス文化の担い手貴族ゴンザーガ家の宮廷で働いていた。出身はクレモナというヴァイオリン属の名製作者たちアマティやストラディヴァリの活躍していた一大中心地である。彼はクレモナ大聖堂でマルカントーニオ・インジェニエーリに音楽を学び1582年15歳、ヴェネツィアで三声部聖カンティウンクラ集を出版している。1601年マントヴァ宮廷合唱長に任命され、1605年マドリガーレ第5巻を出版、詞の情感の音楽的表出を重んじる余り、対位法コントラプンクトの規則に離反していった。「七の和音」三和音ソシレに、根音から七度離れたファの採用は、劇性表出に優れているのをモンテヴェルディが巧みに取り入れていたものである。
 ヴィンチェンツォ公爵の命で宮廷詩人アレッサンドロ・ストリッジォ1573~1630(父は同名の作曲家)は1606年の半ば、新たな台本劇オルフェーオ寓話劇を完成させ、モンテヴェルディは翌年の初めに作曲完成させ2/24に宮廷初演、3/1には再演されている。初演の際、公爵の配慮により台本は印刷され、1609年には楽譜出版、音楽寓話劇ファヴォーラinムジカと記された。独アルヒーフLPレコードは1955年モノラル録音、指揮アウグスト・ヴェンツィンガー、オルフェオ役ヘルムート・クレプス、エウリディーチェ役ハンニ・マッコザック、ムジカ役マルゴット・グィレアウム、パストローレⅠベルンハルト・ミケリス、パストローレⅡフリッツ・ヴンダーリヒ、パストローレⅢペーター・オッフェルマンス、パストローレⅣクレメンス・カイザーブレーメ、コーラス-ハンブルク高等音楽院合唱団、管弦合奏団。
 オルフェオとエウリディーチェの結婚式、「天のバラよ、世の生の力よ」を歌うオルフェオ、使者が妻花嫁は蛇に噛まれ死にオルフェオは奈落の底から、歌い、霊界から連れ戻すことを決意し大地を後にする。「力強き精霊よ」王のプルートは運命の秩序に反することを許し、条件として死者を見てはならぬという条件で闇を進むオルフェオ、心配になりとうとう振り向く、その瞬間エウリディーチェは霊界に引き戻される。オルフェオの嘆きにこだまだけが応える。アポロ太陽神が降臨、真の幸せは天上でしか得られないとして彼は天に昇り神に召される。オペラでは台本と異なり、オルフェオがエウリディーチェを天上に連れて行くというように変更されている。
 ファンファーレ風開始の合奏は、オーストリア放送協会のニューイヤーコンサートの紹介の時に採用されている。オペラの誕生はヨーロッパの音楽の泉、ギリシャ悲劇がルネッサンスの文芸復興とともにイタリアの歴史により生成される・・・