千曲万来余話その659「シベリウス曲Vn協奏曲ニ短調、星空の下で渡り鳥が過ぎていく・・・」

 愛は悲なり・・・という。慈愛と慈悲、ともにいつくしむ、憐れみうつくしむから来ている言葉、意味する心は深いところにある。夜空に星降る時、頭上を一連の渡り鳥が鳴き声を立てて過ぎていった経験がある。懸命に群れながら南へ、越冬する時期と重なる。そんなシーンを第2楽章アダージォ ディ モルト 緩やかに、とても充分に の音楽は連想させる。木管楽器が高い音域からタッタッタッ/タッと下降して、弦楽器群がツァッツァーツァッ、ツァッツァーツァとシンコーへ゜―ション切分音で演奏するところはかなり、印象的である。
 シベリウスは、英語風ではジャン、であるがドイツ語風にはヤンシベリウスという具合になる。ヨハンクリスティアンシベリウス1865.12/8ヘミリナ生れ1957.9/20イェルベンペー没スェーデン系でフィンランドの国民的作曲家。幼少時代に父親と死別、自然を愛し夢想的な性格、森や湖に遊びに行くのを好み、植物や虫を採集することに熱心だった。5歳でピアノに触れ9歳でレッスンをうけるも、自由な即興演奏を好んだ。19歳で法科大学に進学するも、並行してヘルシンキ音楽院の選科生となりウェーゲリウスという名教師に就き音楽理論と作曲法をまなび、ヴァイオリンをシリングに習う。人前であがりやすい性格から演奏家の道を断念して作曲へと進んでいった。1889年秋に給費留学生としてベルリンに行きアルベルト ベッカーに1年間師事している。そこではリヒャルト・シュトラウスの交響詩やヨアヒム四重奏団によるベートーヴェン後期弦楽四重奏曲の完璧な演奏を聴いて深い啓示を受けたりした。ワーグナーとブラームスによる論争では、ブラームスの側に立っていた。1899年には第1番交響曲 や交響詩フィンランディアを作曲、当時ロシア統治下の故国では演奏を禁止されたこともあった。
 1901年にはイタリア旅行の帰路、プラハでドボルジャークに会っている。1902年には第2交響曲を完成、その前後から耳疾にかかり悩まされる。1903年には最初の訪英、ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47の初稿を完成、1904年、ヘルシンキ北方20マイルにあるイェルヴェンペーに別荘を建てている。
 付随音楽として作品46ペレアスとメリザンドを1905年作曲、この年に協奏曲を改訂している。作品47ニ短調というとショスタコーヴィチは第5交響曲ニ短調を1937年発表、ヨハン・セヴァスティアン・バッハにはマタイ伝による受難曲第47曲には、ヴァイオリンのオブリガート伴奏になるコントラルト独唱、神よ憐み給え が有る。この関連性には、シベリウスの作曲により、バッハの世界が既にあり、ショスタコーヴィチがそれに反応しているという構図が予想される。深読みするとそうなのかなあというまでである。
 クリスティアン・フェラス1933.6/17ルテュケ生れ~1982.9/14パリ没には輝かしいキャリアとともに暗い晩年の歴史がある。6歳でヴァイオリンを始め10歳でニースのコンクールに優勝している。翌年パリ国立音楽院入学、ルネ・ベネデッティ、室内楽をヨゼフ・カルヴェに師事したほかジョルジュ・エネスコにも教えを受けている。13歳でプルミエ・プリを獲得して卒業、16歳でロン=ティボー国際コンクールで1位無し2位優勝を果たしている。カラヤンとは1964.5月にブラームスをドイツグラモフォンと録音、同じく10月29/30日にシベリウスを録音、この後チャイコフスキー、ベートーヴェンと連続してリリースすることになる。
 シベリウス第1楽章LPレコードを再生する時、ブランク無音が5秒ほどあり、オーケストラ弦楽がピアニッシモでささやくように開始される。これは重要な意味が有り、この録音の比類なさでチェロやコントラバスの量感豊かな低音域を味わうのは、エクセレント・・・無上の喜び