千曲盤来余話その62「シューベルト、男と女の違い」

1818年頃ベートーヴェンはハンマークラヴィーアのための変ロ長調ソナタ作品106を完成させている。ウィーンのシューベルトは当時21歳であった。1925年に、彼は17番ニ長調ドイチュ番号850のソナタを書き上げている。
イングリッド・ヘブラーによるものを聴いた。
音楽は、音階の扱い方、取り入れ方などモーツァルトを思わせるし。和音の鳴らし方などまさにベートーヴェンの音楽を彷彿とさせる。
ところが、ウィルヘルム・ケンプによる演奏を聴くと印象は少し変わってくる。
シューベルトは青年作曲家。多分女性達の聴衆を前に心情を吐露しているものだったろう。
そこのところ、女性ピアニストは彼の心の機微を、表現できるものだろうかという疑問を人ごとながら、持ってしまう。
ケンプが演奏するとき、フレーズのテンポ観を意図的に緩急自在に、自家薬籠中のものとしているし、そこに意志があるのだ。それを感じさせる。
しかし、ヘブラーによるシューベルトはそのようには、なっていない。女性に青年作曲家の世界は、ミステリーなのである。
ベートーヴェンの音楽に憧れるF・シューベルトの演奏をそばにF・リストが立って聴いているそんな風な音楽になっている。
ケンプのピアノはリストの音楽まで想像させてしまっている。
オーディオ的にシューベルトを再生するとき、その和音の響きに、辟易していた。けれど、ピアノの響き全体を上手く再生できたとき、その音楽は受け入れられやすいものになってくる。OK、OK、やかましくない、ファルテッシモもOKというのは、シューベルトのピアノの音楽を再生するときに必要条件である。
これで、二人のフランツの音楽を受け入れる準備は万端である。