千曲盤来余話その63「嫌う人、嫌われる人」

2014年のメディアが伝えた人のコメントで、一際印象に残る一言があった。
とある、婚約を発表されたその席で、女性がうち明けられたもので、さりげないものであった。プロポーズの言葉は無かったです、と、にこやかに話されたものだった。
それは、婚約発表の会見であって、お相手から言葉こそなかったけれども、彼女は結婚を果たされたのであった。
これは、コミュニケーションを考える上で象徴的であった。言葉はなかったのだけれど、コトは進んだということである。言葉というモノは、道具・手段ツールの一つであって、大事だったことは、言葉以外であったのだろう。何もなかったということではあり得ない話であるのだ。
ひるがえって、このブログでは、501小節とか、ヴァイオリン両翼配置とか発信していても、どれだけ、人にコミュニケイションが、成立しているのだろうか?という不安は、いつもパソコンを打ち込んでいて、抱えている悩み、不安の種なのだ。
このブログがいつも同じコトを話題にして、例えば、運命501小節とか繰り返していると、嫌われるようになるのでは?といわれることである。いつも芸がなく、繰りかえししていると伝わらないよ、ということなのだ。
ベートーヴェンを愛している人に成立する話であって、興味関心のない人にとって、楽譜に書いてあったら、その通りの話であって、何も、全休止があるとかないとか、関わりのない話です、というだけのことになっているので、現実は何も変わらない。
この話で、肝心なことは、500小節完全の作曲、偉業をベートーヴェンが成し遂げた!という事実を確認するのか、スルー、ネグレクトするのか?ということである。
職業音楽家、とりわけ、指揮を職業にしている人は、このことをどのように受け止められるのかということが、このブログの生命線であるということだ。
それを嫌われたら、盤友人は、嫌う人に対して、無力な嫌われる人の遠吠えにすぎないというまでである。