千曲万来余話その291「エリーゼのために、LPレコードからインターネット問題へ」を掲載。

インターネットというツール手段道具によって、価値判断を操作されてはならない、それはソース情報源に過ぎないのだから、判断を下すのは、情報を入手した主体者という事実である。
よくネットで音楽を鑑賞している多数の人々の錯覚こそ、問題であろう。確かに、器械から音楽は聞こえるという主張は可能であるのだが、そこにあるのは音楽情報だけであって疑似音楽体験にすぎないといえるであろう。演奏者と鑑賞者による音楽体験は、記録再生に充分な注意を払う必要があるはずだ。両者の間に、アナログ再生という儀式こそ、音楽鑑賞に相応しい必要十分条件であると盤友人は考えている。
秋の夕空に輝く、ゆうずつ、夕星、古く中国では北落師門と名付けられたフォマルハウトが一際 印象的だ。札幌では、夕方四時頃南西の高度二十度くらいに、確認できる。青白色の一等星、よく宵の明星金星と間違えて認識されるが、それは、十二月頃日没で西の空低く確認できるし、彩りも異なっている。
というほどのサイト情報により、実際に星を観望して、初めて、盤友人の情報発信は価値を持つと言える。ブログウオッチャーも努力してこそ、価値判断を下せるはずだ。インターネットは情報の提供であり、操作する主体者が、操作されるという事態は危険である。たとえば、消費税アップを一時延期するという提案に対して、それにより、財政健全化をいかに実現するのかという政治手段の検討こそ、必要な情報のはずである。甘言による価値判断を避けることこそ、注意努力が必要ではあるまいか?
最近のネット上でのニュース、スケートリンクと鳥インフルエンザ問題で、両者に共通するのは生命尊重から価値判断までの間にはなかったか?単純な問題に見えて、問題の根は深い。
エリーゼのために、というベートーヴェンのピアノ小品がある。演奏を聴いたことのある人や、演奏を経験したことのある人、などなど、様々であろう。楽器と楽譜を前にして、ベートーヴェンの偉大さを実感させられる。簡単にして、ピアノフォルテという楽器演奏する問題、記録再生する課題という二つを、実際に提起する充分な音楽である。エリーゼのために、という言葉、それこそ音楽ではあらずして、イメージである。ピアノの音響を、左手打鍵の上に右手の運指によりメロディー旋律という音楽を演奏するのは、容易ではない。しかし、鑑賞するのは、簡単だ。
ウィルヘルム・ケンプは、ドイツ・グラムフォンを代表する音楽家、膨大な量のレコーディングを達成しているピアニストで大正、昭和に来札している。
モノーラル録音と、ステレオ録音のLPで、ピアノの音色に違いを感じる。多分、使用する楽器のメーカーは、ベヒシュタイン、スタインウエイという二社の違いにあるのだろう。音色の問題を越えても、ケンプの演奏するエリーゼのためにでは、深い響きを体験する。
さりげない演奏に感じられる、強烈な陰影こそ名人にして可能な表現である。
エリーゼが、テレーゼ・フォン・ブルックスウィックなのかどうかは、問題ではあらず、ベートーヴェンの神髄こそ、鑑賞すべき味わいであろうLPの醍醐味だ。