千曲万来余話その519~「ショーソン詩曲作品25、没後70年漆黒の情熱とヌヴーの微笑み・・・」

 エンジェル・レコード1948年8月録音イッサイ・ドブロウエン指揮フィルハーモニア管弦楽団の記録を再生すると、ジネット・ヌヴー1919.8/11仏パリ~1949.10/28葡サンミゲル没の、芸術性が全体の姿でとらえられる。彼女のヴァイオリンは、炎のような情熱を燃え上がらせたロマンティクな世界である。完璧な技術の上に、申し分ない熱意を持った演奏で十九世紀巨匠たちの弟子としてこれから活躍が期待される存在であったのだ。
 エルンスト・ショーソン1855~1899は、マスネー、フランクらに学んだ後期ロマン派で、特に交響曲変ロ長調などで有名。その管弦楽法は、ワーグナーの影響を受けたともいわれていて、繊細で高貴、抒情的なところは他のどのフランスの作曲家とも異なるといわれている。ヴァイオリンとピアノ、そして弦楽四重奏のための協奏曲ニ長調作品21という音楽など、異色の楽器編成を採用している。
 ポエム詩曲、ヴァイオリンと管弦楽のための作品25、今日では有名なもののひとつで第一に高く上昇するようで抒情的な音楽、そして第二には激してロマンティクという主要なテーマに基づいている。 その開始に当たる管弦楽部分は、明らかに一度耳にした響きを再現している。作曲者自身、なんの筋書きもなく何の出来事も起きない、標題を持たない詩的な音楽というものであるのだが、真に衝撃的な音楽である。盤友人にとり、それはチャイコフスキー作曲、悲愴交響曲のエピソードの一つであった。
 チャイコフスキー1840.5/17~1893.11/6ペテルブルグ没は、よく誤解されているのであるがベシミスティズム厭世主義というものがある。それは交響曲第6番1893.10/28初演の強烈な印象であるが故なのだが、だから彼の音楽全てを指すことは誤りだろう。「創造的理性の能力と宇宙の力と調和を信じていた」というのは、ドミトリー・ショスタコーヴィチの評論である。そのオーケストラ音楽の一部分が、ショーソンの詩曲の開始に響いている。そこで、詩曲の書かれた年月を検討すると1896年という事実に出会う。初演は1897年4月ユジーヌ・イザイVnによる。この間の経過に何事があったのかは定かではないけれど、ショーソンがチャイコフスキーの死に、時間的系列が関連性を指摘できることは、あながち無理ともいえないだろう。
 センセーショナルな印象を与える詩曲であるのだが、ジネット・ヌヴーの演奏は、実に入念に表現されていて、第二次世界大戦終了から三年という時間的経過はその後押しをしているといえる。フィルハーモニア管弦楽団は創立間もない時期に、このような名演奏を記録する事実に、感嘆する。だいたい、音楽のおしまいに近づき、フレンチ・ホルンが朗々とメロディーを吹奏するところなど、クレジットこそ無いけれどデニス・ブレインを想像することは許されることだろうと思われる。
 デニスは1945.9/8.イヴォンヌと挙式していてその友人代表は、木管フルート奏者ガレス・モリスだった。その三年後29歳のジネットは、この詩曲を記録することになる。彼女の演奏スタイルは、新即物的な、テンポの緩急は抑制されているものでその上ではあるが、感情の起伏は激しく表現している。「まるで心理解剖のメスの鋭さを見せているものの、けっして冷たくはなく曲への全身的な共感に満ち、いわば情念の苦悶というべき音を引き出し、それがどう始まってどう終わるかを緻密にたどる・・・」と喜多尾道冬氏は評論される。
 ヌヴーの芸術は、わずか30年余りの人生に凝縮されているけれども、ちょうどそれはロウソクの灯火のごとく、生命の宿りを実感させる真実のぬくもりを帯びている。詩曲も演奏時間15分あまりと詩的であり、はかない・・・