千曲万来余話その602~「ショパン曲バラード集、ベラ・ダヴィドヴィチ、女性的演奏の決定盤・・・」

  グランドピアノの演奏において、女性的というと弱々しさが前面に印象付けられるだろう。つまり、振り返るまでもなくエミール・ギレリスとかスヴィヤトスラフ・リヒテルなどロシアンピアニズムというと、圧倒的な大音量から繊細な小音量にいたるまで、どちらかというと、益荒男ぶりの音楽が容易に思い浮かぶ。ベラ・ダヴィドヴィチ1928.7/16アゼルバイジャン、バクー生まれ9歳でベートーヴェン作曲の協奏曲第1番を演奏、1939年からモスクワで教育を受け1949年ショパン国際コンクールでハリーナ・チェルニー=ステファンスカと並びグランプリ獲得、首席でモスクワ音楽院卒業。1978年亡命後米国籍取得、ジュリアード音楽院にて教授活動していた。
 1981年フィリップス・デジタル録音LPレコードを聴く。彼女の音楽は、繊細な音色でもって明確な粒立ち、ハーモニーの音響より和音感を優先させる。個々の音が明快であり、力で圧倒させることなく、ハーモニーの色彩感が鮮明になる。
  フレデリク・フランソワ・ショパン1810.3/1ワルシャワ近郊生まれ~1849.10/17パリ没、父ニコラス・ショパンは仏ロレーヌ州のナンシー出身、母ユスティナ・クシザノフスカはポーランド貴族出身で1806年に結婚して4人の子女をもうけている。フレデリクは4歳の時からピアノを学び、ワルシャワの公衆の前では第二のモーツァルトと認められていて、1822年ワルシャワ音楽院で和声学と対位法を学ぶ。1825年作品1のロンドが出版された。1828年10月から29年7月にかけて多数作曲、フンメルやパガニーニらの演奏により演奏家としての影響を受け、1829年7/31ウィーンに到着し音楽的な成功を獲得している。1830.11/2にはワルシャワを去り、11/23ウイーンに再訪問しているが1831.7/20には同地を去る。この9/8シュトゥットゥガルト到着してワルシャワ陥落の報に接し、作品10の練習曲第12番「革命」を作曲といわれている。
  初恋のあとのショパン第2の恋愛、マリア・ヴォジンスカとは1835年に起こったが約束は果たされなかった。第3の恋愛が有名なリストの紹介によるジョルジュ・サンド、共同生活経験の後1846年11月にはノアンを去り永遠にかの女のもとには帰らなかった。
 作品23バラード第1番ト短調は1831-35年に作曲されて物語詩バラードはブラームスにも影響を与えている。
 作品38第2番ヘ長調はシューマンに献呈、1836-39年作曲、ベラ・ダヴィドヴィチのLPレコードを再生して、フランツ・シューベルト1828年作曲即興曲第2番作品142が想起された。田園的といわれる作風でありながら、どことなくシューベルトの鐘の音を思わせる音型に、確信して、
 作品47第3番変イ長調1840-41年作曲もどことなく舞曲風でS氏の即興曲第3番の音楽に共通する。
 作品52第4番ヘ短調1842年作曲は、スケールの大きな音楽で、ダヴィドヴィチ女史は力で圧倒するのではなくて、緻密なタッチを実現して、ショパンの宇宙的世界を表現することに成功している。
 「時代」というものは、歴史がヒズストーリーといわれるがごとく、男性的音楽の開拓でもって、その後に、このような音楽のあり方も有りというように、ダヴィドヴィチのデジタル録音盤がリリースされた意義は極めて大きいと言わざるを得ない。力で押すことなしに、色彩感でピアノ音楽を展開する。ここに女性的演奏の典型を指摘することは、必要なことであろう。「男勝り」というのは多少女性を格下に見下す言葉ではあるのだが、異なる土俵で集中力を発揮する女性的演奏は、現代の演奏全体に共通する傾向だろう。男性は自分がそれであることを刻印する演奏を展開するのだが、女性は同じことをする必要は無く、自然体こそ女性的演奏の最高峰といえるのだろう・・・