🎼 千曲盤来余話 by盤友人

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1827年12月頃ウィーンにて作曲、ということは、その年の3月にB氏への別離を経験していて、もはや事実上一段落ついていたであろうことは予想される。ただ、それは、S氏にとってどれだけ喪失としてインパクトがあったものか、この音楽を通してのみ感じられることといえる。  
 離別の経験で、共感するか否かは、そのように感じる人の人間性によるといえるだろう。生命は終わりがあるものであり、それは近しい人の経験によってのみ、知らしめられるものである。だからS氏にとって、B氏はまさしくそうした事実であったのだろう。第二曲は、弔いの鐘、ピアノという楽器の音響が、実際、そのように響くかどうか、オーディオの階段を、一段一段歩みを進めて、獲得できた音楽といえる。倍音が、開始からお仕舞いまで鳴り続ける、不思議な音楽になっている。そういえば、ウィ
ルヘルム・バックハウスという偉大なピアニストの亡くなる1週間前に演奏されて、生涯のフィナーレに選ばれた音楽であったのは、深く心をうたれる事実である。  
 アルフレッド・ブレンデル1931・1/5チェコ、モラヴィア、ヴィーゼンベルク出身で、オランダ、フィリップス1974年録音盤、アメリカ、ヴォックス1962年頃録音盤という二種類のソースを比較して聴くのは、一興。ピアノという鍵盤楽器でメーカーによる音色の違いを愉しむことが出来る。もちろん、クレジットは無く、スピーカーの鳴り響き方の違いを、どのように引き出すか?というものと、純粋に、演奏上のテンポの揺れ、間合いの表現を愉しむことになる。明らかに前者はスタインウエイ、後者は、ウィーン製ベーゼンドルファーというものであり、そのように響いているというまでだ。その違いとはどういうものか?
     
 
ブレンデル31歳頃のものはテンポ感は一定というか、伸び縮みは少なく、目の詰んだ発条の効いたしなやかな音楽のように聞こえる。10年余り後の録音は、それに比して、ところどころに溜めが感じられる。柔軟な感性が加わり、年輪の経過を感じさせる。ひとまわり、表現に幅が広げられたといえる。スタインウイは、中高音の倍音が豊かで、華やかさが感じられるのに対して、ベーゼンは、中低音の倍音が豊か、重心の低い音響である。ベーゼンを愛するピアニストの特徴として、ロマン性、ウィーンへの憧れを強く感じるのは、盤友人一人のことなのであろうか?どちらが良いのかという問題ではなくて、味わいの違い、微妙なことなのである。

1969年2月録音、МPSレコード、彼がピアノに向かう姿と象徴的なピアノのフレーム形状からして、その写真は楽器がスタインウエイであることを知らしめるものとなっている。   
  フリードリッヒ・グルダ1930・5・30ウィーン出身2000・1・27アッターゼ湖畔自宅没が39歳頃のレコードで、クロード・ドビュッスイ、24の前奏曲集を聴く。近接したマイクロフォンによるものらしく、生々しいスタジオ録音になっている。第1巻は1909~10年パリで作曲されていて第2巻は1911~13年パリで作曲。ラヴェル作曲夜のガスパールは1908年作曲であり、ドビュッスィの前奏曲第2巻は明らかに、その影響を受けているように聞こえる。彼はラヴェルの13歳年上であり、その関係は、フランス印象主義の旗手として微妙である。ドビュッスィはフランス象徴派の詩人たちとの交流を通して、管弦楽や、ピアノ音楽などの重要な作品を発表している。  
 グルダは、後年、ジャズ音楽との関わりをレコードしている異色のピアニストである。ウィーンの三羽烏として、パウル・バドゥラスコダ、イエルク・デムスたちと有名な存在で、その盤歴は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、そしてドビュッスィなどと重要な作品を残している。    
 グルダの演奏は、テンポ感のしっかりした端正なものが多く、彼の性格は一途でひたむきさがある。ドビュッスィの前奏曲集は、打鍵の確実で、しっかりした音響を記録している。きらめくような輝かしい音色からそこはかとない音色など幅広いピアニズムを披露していて、ドビュッスィの音楽としてその性格が充分に描かれている。軽快なリズムが基本であって、全曲を一気に聴かせる集中力を有している。D氏の鍵盤音楽の源に、ラモーやクープランたちが居たことを認識することは、重要なファクトである。すなわち、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどドイツ音楽の柱、ハイドン、モーツァルト、シューベルトなどウィーン音楽の流れ、リスト、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンなどのロマン派音楽などの時代の後、重要な印象主義のピアノ音楽として特色がある。彼らの継続として、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらの近現代の音楽へとピアノの世界は、百花繚乱の様相を呈している。       
 前奏曲集の第7曲、西風の見たもの、第8曲、亜麻色の髪の乙女などを聞いていると、ダイナミックスの対比など白黒が明快な音楽は、ドラマ性が充分である。それぞれ、12曲ずつの2管編成で、バッハの平均律曲集とパラレルな様相を帯びていて、不即不離の音楽ではあるまいか? 
 グルダの演奏には、一貫して彼の姿勢が聞き取れる。それは、形式より造形を優先したスタイルを崩していないところにある。決して情緒的な気分を感じさせるところなく、客観的な演奏に対して、彼のプライドを感じさせる。昭和45年、1970年には、旧札幌市民会館に登場している。バッハのイタリア協奏曲を冒頭に置いたリサイタルは、彼の音楽性を披露していて考えさせられるものがある。バッハ作曲でありながらイタリアという歌謡性にあこがれた音楽、すなわち、形式の上に造形性を優先したポリシーは、グルダの一生を通したスタイルで、ドビュッスィの前奏曲集は、メジャー録音ではないけれども彼のディスコグラフィーに重要な刻印を残したものといえる。

先日、知人から訃報が届いた。6月2日、ジェフリー・テイト1943年4月23日英国出身74歳。 彼はモーツァルト指揮者として知られクレンペラーの再来とまで称されていた。1979年本格的なデビュー以来、イギリス室内管弦楽団初代首席指揮者就任1985~2000というキャリアが示すように楽員との絶大な信頼関係を築いた古典派をレパートリーの中心に据えた芸風で、内田光子女史とのモーツァルト、ピアノ協奏曲集が特色の盤歴である。         
 LPレコード末期1986・2・26、3・2録音ドレスデン・シュターツカペレとシューベルトの交響曲グレートD944は、一際精彩を放ったディスク。プロデューサーはデイヴィド・グローブスとウェーグナー、録音技師クラウス・ストリューベン、EМI盤。  開始早々、ペーター・ダム氏によるホルン独奏が右チャンネルから、アンダンテという歩くようなテンポで朗々と展開する。このテンポ感は、第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォ、第4楽章アレグロ・ヴィヴァーチェに至るまで、安定感ある設定を感じさせるものになっている。ヴィヴァーチェというのは、急速にプレストと異なり、生き生きとしたテンポのことである。
 その演奏のピアノ弱奏部分で、弦楽器の定位が印象的に録音されている。
 第一と、第二ヴァイオリンに左右の対比があり、左チャンネルのコントラバス、チェロのヴォリュウム感など豊かである。チェロとアルトが中央に設定されていて、右チャンネルでは第二ヴァイオリンが定位している。ホルンの配置が右チャンネルというのは、古典配置して理想的である。なぜなら、コントラバスが左チャンネルに存在することによるから。ダム氏の豊かな音楽性とあいまって、ファゴット、クラリネット、そしてフルート、オーボエなど管楽器の合奏アンサンブルが絶妙といえる。トランペット、トロンボーンの切れ味良い演奏も印象的である。
 第2楽章の弦楽アンサンブルがこれほど印象に残る演奏は稀である。安定感あるテンポ設定により一段と快い演奏に仕上がっていてこんなアンダンテは初めての経験だ。63分余りの演奏時間は第1、第3、第4楽章リピートありでのことにもよるが天国的長さを一気に聴き終えることになる。 
 現代配置から古典配置への潮流だが、このあたりから、大きくうねり始めている。1945年を境界として、ウィルヘルム・フルトヴェングラーは、古典配置から転換して、スタンダードとしての現代配置、第一と第二ヴァイオリンを指揮者左手側に束ねるものにして、アルトの奥にチェロを配置することになる。そのために、コントラバスは舞台上手配置。古典配置は左スピーカーにチェロやコントラバスが定位するために、第二ヴァイオリンは右スピーカーから聞こえてきて、その効果は作曲者の意図にかなったものといえよう。古典配置によるグレートのLPは、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団や、ルドルフ・ケンペ指揮するミュンヘン・フィルハーモニー、ニコラウス・アーノンクール指揮、ベルリン・フィルハーモニーなど魅力的演奏のオンパレード。 だから、古典配置は曲によってという言葉も目にするのだがそれはそれで、古典配置が主流となる時代には、大して意味のないものであり時代の展開を待望するのは、盤友人だけなのであろうか?

誤解されているようだが、Vn両翼配置は演奏の目的ではない。それは前提条件であり、最終的にはモーツァルトの音楽を鑑賞することにある。だから、現代主流のヴァイオリンを束ねた配置では、味わうことのできない世界なのであり、すでに、否定されている懐古趣味の復活とも異なるだろう。  
  その神髄は、チェロとアルトを舞台中央に配置すること、両袖に第一と第二ヴァイオリンを展開することになるから、現代主流の配置は舞台下手向きに中心線が引かれているといえる。だから舞台上手側にコントラバスが土台となっている配置は、ちょうど、正反対の音楽に仕上がっていることになるのである。ヴァイオリンとチェロの合奏は音楽的理想の実現であり、アルトと第二ヴァイオリンのアンサンブルは、応答の音楽なのである。ちなみに、指揮者の左手側からコントラバス、チェロそしてアルト、第二ヴァイオリンと展開するのは、開放弦が低音から高音へとなめらかに上向するから、そこのところ、理想配置といえる。 
 ジェイムズ・レヴアインは、ウィーン・フィルとモーツァルト交響曲全集を完成させて、K543は、1986年頃録音された名演奏である。こう表現すると、名演奏とは何か?ということになる。スタンダードとなる録音として、日本では、ブルーノ・ワルターのものが広く知られているのだが、それは、一つの音楽のスタイルであって、テンポを自由に変化させるのが当時のものであり、現代には受け入れられない演奏である。すなわち、一定のテンポ設定の下にわずか、自由な変化を与えるのが現代のスタイルなのである。先日、NHK‐Eテレでブラームス交響曲第4番、イタリア人指揮者による演奏が放映されていた。それは、オーケストラに目一杯歌わせていて、ロマン性豊かな解釈であったといえる。それも、一つの名演奏なのではあるが、第一と第二ヴァイオリンを束ねた現代主流派型の演奏なのであってテレヴィ聴衆にとって、あれを、第一と第二ヴァイオリンがステージ両翼に配置されていたなら、どのような演奏に仕上がっていたのか?という疑問を持たざるをえない。モノーラル録音ではあるのだが、トスカニーニの演奏はすべて、両翼配置であったという事実を思い起こすことは、無益なことではないのである。あの男性的演奏の根源には、舞台下手にコントラバス、チェロそして第一ヴァイオリンが配置されていたのである。そこのところで、主旋律がコントラバス、そしてチェロという土台と結びつき、強固な演奏の要素であり、名演奏の必要条件といってさしつかえないだろう。レヴァインとウィーン・フィルによるモーツァルト演奏を聴いていると、主旋律を支える側に、チェロなど低音の音楽が演奏されている。 
 フルートの独奏や、クラリネットの二重奏など、さりげない名演の記録も、ヴァイオリン両翼配置の弦楽合奏が前提となっていることが、キーワードである。ウィーン・フィルハーモニーの弦楽合奏は、その音程が完全であるというのは、特筆される事で、忘れてはならない。美しい音楽には、演奏する前提が必要なのであって、もはや、ヴァイオリンを束ねているようでは、感興がそがれてしまうといえるのである。

オットー・クレンペラーのことを、人は頑固者だ!と決めつけるきらいがある。ここのところを、しっかり考えてみたい。モーツァルトを人は理解していてのことなのだろうか?はなはだ疑問といえる。       
 オーディオは、モノーラルからステレオ録音という具合に展開を見せていることに対して、その変化を肯定的に受け入れて問題は無い。舞台芸術の受容としてそこを起点として押さえることの重大ポイントであるからだ。     
 振り返ってみるに、初期のステレオ感に無理があったといえる。それは、高音域左チャンネル、低音域右チャンネルという感覚の問題である。これは、現代では完全に否定可能な認識だ。モノーラル録音時代が1955年頃迄続いたことにより、混乱をきたしていたことは、確かだった。スタンダードとなるステレオ感が確立していなかったことによる。総体の一角をになっていたのがオットー・クレンペラーという指揮者のステレオ録音であった。片やカラヤン、ベーム、ヨッフムらのドイツ系の指揮者たちのステレオ録音が多数派を形成しているのだがそれは、おしなべて過去の両翼配置型音楽の否定が出発点であり、その体現者としてウィルヘルム・フルトヴェングラーがいた。1945年を境界として変化を見せたといえる。旧い音楽として否定された姿を、クレンペラーは、受け入れなかっただけなのである。モノーラル時代の旗手としてアルトゥール・トスカニーニが、そしてその後継者にグィド・カンテルリがその役割を果たすはずであった・・・1956年11月、悲劇は襲いかかり、その記憶に対して、多数派は新しい時代を求めるオーケストラ、ステレオ録音として発展を遂げたのである。その間でも、ケンペ、クーベリックのステレオ録音にヴァイオリン両翼型が存在したことは極めて重要であり、その支柱的存在に、オットー・クレンペラーが居たといえる。     
 モーツァルトの舞台芸術は、前後左右という四分割の感覚が、キーポイントと言える。ハーモニーの展開が、ソプラノ、アルト、テノール、バスという四声体が横一列に並ぶ現代主流ステレオ感であるといえるのだが、それを一度否定する必要がある。ソプラノの奥にバスが支えて、その一対として内声部アルトとそれを支えるテノールが後ろに配置される感覚、それがすなわちモーツァルトの芸術の起源であり、舞台での左右の対話というものが、ステレオ録音の一つの在り方であろう。                  
 モーツァルト、交響曲第38番は、1787年1月プラハで初演されている。それをクレンペラーは1962年3月ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とステレオ録音を果たしている。彼のモーツァルト愛が込められていて、左右の対話、前後の奥行きが充分の、ロマンがこめられたステレオ録音になっていて、オーディオの充分な醍醐味を味わえる一枚である。つまり、モーツァルトの仕掛けを、左右の対比が、高低音という固定観念から解き放たれた自由な音楽なのであって、単なる頑固者はどちらなのか?と問われるのが、2017年の地平である。頑固者こそは、第一と第二ヴァイオリンをたたんで、コントラバスを舞台上手に配置する指揮者たちを指すといえる。そこに、モーツァルトの愉悦感を味わえることはないのである。       
 百の左右高低ステレオ録音を聴くのではなく、クレンペラーのステレオ録音一枚を聴くことにより、極楽往生を遂げると云えよう!

ヨハネス・ワルターのフルート、ドレスデン・カンマーゾリステンの演奏、ルカ教会スタジオ、1971年⒒月録音、ドイツ・エテルナ盤。自由闊達、古典的優雅、軽快愉悦、行雲流水、室内楽の極めつけの演奏である。ドイツ民主共和国、東独のメンバーによる芸術性の極めて高い演奏内容で、一聴してただものならざる芸術価値を感じさせる名演奏といえる。大体、モーツァルトがフルートという楽器を嫌いだったとかいわれていて、その音程の不確実性をうんぬんする向きもあるのだけれど、K285でニ長調、ト長調、ハ長調、K298イ長調という4曲の四重奏曲、そして、K299でフルートとハープのための協奏曲など、1778年頃に集中して名曲を生み出しているМ氏。その天才ぶりが、よく伝わる作品ではある。フルート、ヴァイオリン、チェロ、アルトの四重奏その上に、2曲のコンチェルト、そしてフルートとハープのための協奏曲と名曲のオンパレート。言うまでもなく、彼は天才である。         
 よくフルートは音程があいまいで・・・とかいわれているけど、それは楽器構造上での難点であって、名演奏者の手にかかると、そのような不安材料は、一切無縁である。ヨハネス・ワルターも日本でこそ有名ではないけれども、ドレスデンきっての名フルート奏者、ニ長調K285での第3楽章ロンド・アレグレットなど、天衣無縫、演奏技術を軽快に披露して余裕綽綽、むつかしい技術を平明に聞かせるつぼを押さえている。よどみない第二楽章アダージョなどさらりと流しているなど実に憎いしかけである。その第一楽章アレグロ快速にであるのだが、定位、ローカリゼイションは左スピーカーに独奏フルートが演奏を披露していて、中央にヴァイオリン、右スピーカーには、チェロとその手前にアルトが演奏している。これは、一般的な配置だろう。       
 左スピーカーにフルートというのは、自然である。その奥にチェロを配置するのはいかがであろうか?そして右スピーカーでは、アルトと手前にヴァイオリンを配置する。そうすると、右側で合いの手を入れて、左スピーカーで主旋律と、第一拍を担当するチェロを演奏させるというアイディアであり、弦楽四重奏のヴァイオリン両翼配置で、第一ヴァイオリンの部分に独奏フルートを座らせることになる。ここで、一般的な発想のチェロを右側に配置するという固定観念を、ひとひねりするところが、ミソである。                          
 レコードは記録されていて、コンクリートみたいなもの、鑑賞するときに、頭の中でこういう風に聞こえたらよいのになあ、といつも聴きながらそのように思いをめぐらせるというのは、欲求不満になるのではあらずして、自由な思考を愉しんでいるのである。第二楽章で弦楽器のピッツィカートなど、左側にチェロがいた方が自然なのになあと、盤友人は考えている。これは、何か?というと、演奏家はいつも演奏しやすいように発想しているのだが、それを、どのように聞こえているのか?という観点で作曲家はどのように考えているのか?という配慮が、今ひとつ欠けているのではなかろうか?というのが、スピーカーに向かう鑑賞者の発想である。これからも、演奏記録に向かうアーティストのみなさんに、一言、作曲家はいかに作曲しているか?そのベストセッティングを披露して頂きたいものである。金太郎飴をいつも懐かしんでいるのではあるのだけれども・・・

先日、交響楽団五月定期公演で、あれは指揮者の解釈か?という指摘をした。本棚から楽譜を取り出して該当のところを確認することが出来て、盤友人の認識は適当ではなかったことが確認できる。1ers de chasque pupltre Soli というようにフランス語記入があり、辞書を引くと、~それぞれの譜面台 独奏で~この解釈を、指揮者ハインツ・ホリガーは指示していたということで、盤友人はかつて、札幌厚生年金会館での、ラファエル・フリューベック デ=ブルゴス指揮したフィルハーモニア管弦楽団の演奏で第一ヴァイオリン斉奏ユニゾンだった記憶による誤発信。あれは、デ=ブルゴスの解釈が特殊だったことなのだろう。ホリガーは楽譜に拠る指揮だったということだ。                                        
  指揮者がレコーディングするときなど、採用楽譜問題は、演奏の大前提となる重要課題であるのだが、その楽譜自体の問題を、盤友人は指摘する。ベートーヴェンの第五番ハ短調交響曲 第一楽章小節数問題である。問題の箇所は389小節目の全休止、二分休止符の存在である。ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社の旧全集1862年頃の改版1966年を底本としているものの写真を掲載。 この曲の解釈、開始の五小節をそのまま、一単位と考えると、123、124小節目の2小節が全休止であって、それまでをリピートして、124と501小節を合わせて625小節すなわち、5の四乗という数字を確認できる。これが、解釈の鍵、426小節目から音楽が流れ出して、現行の427小節目からでは、一小節ズレたことになる。だから、389小節目の全休止が不自然であるという指摘であって、626という数字は不完全、B氏の音楽とは無縁であるということを指摘するのである。
 これは、ベートーヴェンに対する愛情により、その結論は導かれるもので、そこのところ、完全性の追求、そしてその作曲で実現したという感覚が、あの全休止を否定することになる。
 じっくり、総譜楽譜の写真を見ると、その不自然さが、分かるか分からないか、という問題と、レコード、アルトゥール・ニキッシュ指揮、山田耕筰指揮のSP録音では、その全休止が無いという事実、それは、採用楽譜にそれがない底本による演奏であり、その楽譜の存在の根拠となる。その問題は、現在、502小節の演奏が無意識の前提としてはならないということである。それしかないことではない。つまり、指揮者にとって、選択を迫られているということであろう。否!501の演奏があってしかるべきということだ。
 その演奏をする上でテンポが問題となる。アレグロという指定をプレストのように演奏するのは今まで通りの音楽になるだけで、コン ブリオ勇気をもってというごとく、少し緩やかなテンポを採用する時、あの休止する音楽の不自然さは明らかとなろう。なぜ緩やかにするのかというと、それは、ヴァイオリン両翼配置というアンサンブル合奏の高難度によるもので、演奏者と指揮者の両者信頼の上でのテンポ設定により、演奏可能となるのだ。第二ヴァイオリンとアルトが扉を叩いて、さらに、第一ヴァイオリンが叩くというのは、舞台右側から舞台左側へと音楽が対話することに意味があるのを意識化する音楽こそ、501音楽実現の鍵!といえるだろう。指揮者のみなさんは、お試しできる話ではある。どなたが、最初にされるものなのか?楽しみだ!


シューベルトは、ベートーヴェン27歳の当時ウィーンに誕生し、B氏の死の翌年31歳で冥界に旅立っている。S氏の音楽はロマン派に属するものであり、B氏の音楽は古典派でありながら、すでにロマン派の音楽を内包する世界であった。ハイドン、モーツァルトの世界が古典派の典型であり、形式でもって情緒の表現を創造していたのに対し、S氏は情緒が形式の枠を超える音楽創造の世界に遊んでいるのである。アン ディエ ムズィーク音楽に寄すという歌曲、高校生の音楽教科書に掲載されていて、最初の学習はハ長調をニ長調に移調して記譜するものであった。     
 現代では、コピーすると済むものを音楽の先生は、手で書き写す作業を指示していたのである。まさにアナログ的な学習法の典型であり、作曲者の作曲の結果体験なのであった。      
 その盤友人の師が80歳?頃作の短歌・・・わがピアノ、ウィーン製なれば日毎弾く音はウィーンの匂ひくるなりという一首で彼女は先月天寿を全う、百三歳であった。         
 ピアニストには、タイプが二通りあって、メーカーにこだわりを持つ、持たないという生き方である。ウィルヘルム・バックハウス、クリフォード・カーゾン、パウル・バドゥラ・スコダ、ルドルフ・フィルクスニー、ジョルジュ・シフラ達は、特にウィーン製品のピアノのLPレコードがほとんどである。男性ピアニスト、アルフレッド・ブレンデル、女性ピアニスト、アンヌ・ケフェレックなどは、音楽によりメーカーを交替しているし、男性のアルトゥール・ルーヴィンシュタイン、ウラディミール・ホロウィッツ、クラウディオ・アラウ、女性のイングリット・ヘブラーはスタインウエイというものにこだわりを見せており、ウィルヘルム・ケンプなどは、モノーラル録音時代は、ベヒシュタイン、ステレオ録音時代はスタインウエイと、メーカーを使い分けている。特に、ヘブラーのモーツァルト、ピアノ協奏曲集は3人の指揮者により制作年代の異なるスタインウエイを使い分けている。
 シューベルト作曲、ソナタ第19番ハ短調、D958の第二楽章アダージョなどは、まさに女性が理解できるものか?イッヒ リーベ ディッヒという文句を告げる立場の音楽であり、女性が理解できるものか?というのは告げられる立場の存在で・・・というほどの意味である。その点、ヘブラーの演奏とブレンデルの演奏には、天と地ほどの味わいの違いがある。すなわち、彼女の演奏は、美しいものであるのだが、S氏の決然とした音楽と決断に迷う表現のその差の揺れ幅が、その味わいの分かれ目になっているのである。そこのところ、スタインウエイと、ベーゼンドルファーには、表現の差がよく分かると云える。ブレンデルは68年頃、米ヴォックスでLPをリリース、72年頃フィリップス録音でLPをリリースしている。前者はベーゼンドルファー、後者はスタインウエイの響きがする。というのは、クレジットはないからであって、その違いは、盤友人のオーディオのグレードで受ける印象の違いによるもの。だから、良い音とは何か?と問われると、ピアノの音色の違いを表現できるか?否か?にあり、だいたい、多額の投資をしてシステムを揃えるとか、真空管をオールドタイプに揃えるなど、努力を必要として到達する世界なのである。      
 嫌味な話で恐縮だが、それは、金の解決などではあらず、情熱の有無に尽きる話なので・・・

手元に、楽譜を持ち合わせておらず、それが作曲者の許容する解釈に当たるのか?指揮者は第三曲、風と海との対話においてクライマックスにあたる場面、第一ヴァイオリンはAs変イとDes変二の斉奏ユニゾンで22小節間フラジョレットトーン、弦楽器のハーモニックス倍音を聞かせるところがあるが、それをコンサートマスターと隣、第一プルトだけの演奏にしていたのだった。多分、彼の解釈か、芸術的理由からの選択によるものなのか?即断はできないのだけれど、盤友人は、そこのところ、オーケストラがどのように演奏してくれるのか、当夜最大の期待を抱いていた音楽なのであるが、それを彼は二名だけの演奏に変更を加えていたのだった。それは、ショックだった。 
  さもありなん、彼は、ヴァイオリンの配置が両翼配置ではなく、第一と第二を束ねる現代主 流の選択なのであるが、ドビュッスィの管弦楽法は、たとえば、チェロとアルトの音楽の時、舞台下手側のヴァイオリン群は音を出さないでいる部分などがあるのだが、それは、両翼配置の場合には舞台中央の音楽に当たる。だから、作曲者の前提としては、楽器配置のイメージがあるのであり、それが、コントラバス舞台下手に位置するヴァイオリン両翼配置なのであり、当夜、六人のコントラバス演奏者は普段通り、舞台上手配置をされていたという構図。否定されるべきは、指揮者によるヴァイオリンを束ねる判断そのものなのである。現代、なぜその選択が主流を占めるのかというと、指揮台に立つ指揮者のリスク回避なだけなのである。ヴァイオリンを舞台両袖に開くと、格段に演奏技術の高さ、緊張感が強いられることを予想されるのだが、それでこそ、その緊張感こそ克服すべき音楽なのであろうし、その交響楽団の力量を発揮する選択そのものなのである。あの部分に限らず、音楽の楽しみはいたるところにあったのだ。                
 音楽の演奏上の透明感は、当夜、一際精彩を放っていたし、なにより、ラトヴィア放送合唱団、各パート六名ずつによる演奏は、女声前列、後列は下手側バス、上手側テノール配置という、四声体にとって理想とする配置をなされていて、10分に及ぶ無伴奏アカペラ演奏での、マーラー交響曲第五番第四楽章アダジェットのクリュタス・ゴットヴァルト編曲版、ヨゼフ・フォン・アイヒェンドルフ詞の夕映えに、素晴らしい理想的な、極上の演奏を披露していた。その前には、オーケストラの演奏があって、アタッカ、続けて演奏されていたのだが、たしかに、オーケストラ弦楽器奏者たちは、音を出さないでいたのだった。それが、布石であったといえば、そうなのだが、あのドビュッスィで、ユニゾンがそのように第一ヴァイオリン奏者達は、待機させられていたというならば、オーケストラ定期会員である盤友人は、ほぞをかむ思いになったのである。なにより、当のメンバーたちもそのように、感じていたと思われるのだ。     
 海、第二曲波の戯れでの打楽器、トライアングルの演奏一音一音なども、鮮やかで管弦楽法の透明感は極上の演奏が展開されていただけに、あの指揮者の解釈は、納得が行かないものであったといえる。交響楽団定期公演での最高の醍醐味は、演奏者たちの活躍に他ならない。指揮者の解釈、それが世界最高器楽奏者によるものであったとても、残念至極であったという思いをさせられて札幌コンサートホールを後にしたのだった。名曲、名演奏を聴いた後に・・・

 LPレコードは商品なのか?はたまた芸術情報なのか?物なのか?芸術なのか?いろいろと思いめぐらされるのだが、盤友人がハンス・クナッペルツブッシュ指揮するワーグナー作曲した序曲を再生する時、彼の芸術が伝わってきて、不覚にも落涙を覚える。単なる商品にあらずして、そこに偉大な彼の存在が再生されるのは、宗教的儀式でもありえて、万歳!と叫びたくなる衝動をこらえる努力が必要になるから不思議だ。   
 一見、ネオナチズムの呼び声かと錯覚するほどなのだが、さにあらず、現代のウスクチ商品氾濫に対する熱烈なアンチテーゼなのであり、過去の偉大なる芸術に対する懐古趣味ならずリスペクトである。それは、たとえば、クナの75歳アニヴァーサリーレコーディングによる、1962年ミュンヘン・フィル録音を再生する喜びにある。タンホイザー序曲では、お仕舞いにある救済の主題がブラス楽器による吹奏と弦楽器の音楽により、号泣をこらえるのに努力が必要となる自分がいる。確かに、レコードで演奏しているのはオーケストラのメンバーだけなのだが、そこで伝わるのは、偉大なるクナに対するリスペクト以外の何物でもない。ここで、言いたいことは懐古趣味ではあらずして現代に対する警鐘である。ヴァイオリン両翼配置を否定した現代多数のオーケストラ音楽、それ自体は、左右の翼を畳んだ堕落であり、アンサンブルのリスクを安易に回避した結果に対する鉄槌である。つまり、左右のスピーカーからヴァイオリンの演奏が再生されるオーケストラ音楽の核心性であって、現代の欺瞞をあばくのが、クナの芸術、そのものである。聴衆は提供される情報を鵜呑みにするだけなのであるが、問題は、ヴァイオリン両翼配置の透明化である。忘れ去られた栄光、熱狂主義再現ではあらずして、リスク回避に陥ることのない真のオーケストラ音楽再生である。   
 クナの指揮芸術は、まさにオーケストラ全員の音楽の統括であって、彼の存在なしでは、語れない、作曲家、指揮者、演奏者の三位一体であり、それを認め、再生するのがオーディオリスナーの責任である。   
 くりかえすが、懐古趣味、些末主義、全体主義ではあらず、逆にファナティズムを戒める態度こそ、求められる境地といえるのだ。    
 おそれるべきは、排外主義だ。ヴァイオリンの第一と第二を束ねるのは、安易なリスク解決法なのであるという認識に気が付くと、現代の優秀な演奏能力を誇る口先だけの事実ではなくて、その証明になるのであろう。たとえは、札幌で唯一の職業オーケストラが、口先だけでその優秀性を唱えるのではなく、定期公演でヴァイオリン両翼配置のもとに、オール・モーツァルトプログラムを実施するだけで良いのだ。両翼配置は、音楽観の発露なのであり、単なるヨーロッパ芸術模倣、音楽を猿真似するのではなく、演奏能力発揮する模索こそ、必要な態度なのである。オーケストラ活動の出発草創期はチェロを舞台の右袖に持ってきているのだが、ワーグナーの音楽は、現在の第二ヴァイオリンと座席を交換するが良い。それでこそ、解決の一段階なのである。第一と第二ヴァイオリンを両翼に開く感覚は、オーケストラが正面に立ち向かうという姿なのであり、現在は、舞台の下手側に向いている状態といえる。コントラバスは、指揮者の左手側に位置して土台となり。第一ヴァイオリン、チェロと一体の音楽を演奏するのが理想である。舞台上手側は、アルト、第二ヴァイオリンが位置していて、その後ろにホルンやトロンボーンという管楽器の演奏がものをいう。日本コロンビアのレコードは今なお貴重なのである。

バッハは前後にアリアを置いて30曲からなる変奏曲BWV988をものにしているがベートーヴェンは33の変奏からなる作品120を創作している。ゴルドベルグもディアベルリも人名で共通しているのだが、並々ならぬ後者のライヴァル意識は、実に微笑ましい。バロック音楽の代表と古典派の旗手のキャラクター比較でもあり、興味つきない。作曲年としては80年くらいの違いがあって、歴史的にも重要な音楽ではなかろうか?音楽の父バッハは小川から至る大海だというのは、ベートーヴェンの記述ではあるが及びもつかない存在の自覚として、それはその通りであろう。音楽の父の子、ベートーヴェンとしては、いかにも人間的な音楽が面目躍如である。  
  カイザリング伯爵のために宮廷奏者であるゴルドベルグが弾いた眠れない夜ための変奏曲。ぐっすりねむるどころか、集中していると、眠れなくなってしまうので、ほどほどに聞いた方が賢明なのだろうが、たしかに一面、眠りにつくためにも具合の良い音楽ではある。    札幌の五月半ばというと、花冷えの季節、盤友人にとってオーディオ・システムの革命的展開、メインアンプの三極管導入を果たすことが出来た。      
 シフ・アンドラーシュはブダペスト出身1953年12月21日、盤友人と同年生まれで68年フランツ・リスト音楽院に入学。74年チャイコフスキー国際コンクール第4位。76年初来日、夫人は塩川悠子。レコーディング、リサイタルともに活発にこなしている。 チェンバロをジョージ・マルコムに師事している。82年にはザルツブルグ音楽祭にデビュー、同年12月デッカにゴルドベルグ変奏曲をデジタル録音していて、LPをリリース。リアルタイムで購入していたものをじっくり再生出来て、目からウロコが落ちる思いをした。第7変奏6/8拍子二声のシチリアーノで二段鍵盤のようにオクターブ上の演奏を一部取り入れていて、音色の変化を工夫している。それはあたかも、曇り気味の空から日の光りがきらめく一瞬を感じさせるがごとく、インパクトを与える。使用楽器はベーゼンドルファー、キングズウエイホール、ロンドンの空気感豊かな録音になっていて、スタジオ録音とは、ひとしお別な趣がある。ホールは無人でありながら気配としては音響空間に客席の存在感があり、それは、小宇宙。作曲当時にグランドピアノは無くて、有った鍵盤楽器はチェンバロ、ハープシコードなのである。       
 スヴィヤトスラフ・リヒテルはピアノという楽器で、メーカーの特定を避けるむね、こだわることを否定していたというか、戒めていたのだが、彼の選択は、多様なメーカーに対応するピアニストとしての識見であって、ウイルヘルム・バックハウスやクリフォード・カーゾンのように、ウィーン製品にこだわりを見せるピアニストの存在を意識しての発言であろう。    
 一般的に、レコードは自分の気に入り一枚あればそれで充分という生き方もあれば、盤友人は、ゴルドベルグ変奏曲を気になる演奏者でそろえたい。グレン・グールドにしたって、1955年モノーラル録音そして81年デジタル録音もあるが、彼は翌年11月4日トロントで没している。多分、シフはグールドと異なるアプローチでバッハ演奏を記録しているのであり、彼へのオマージュというコンセプトで記録していたのだろう。多様性そのもの。     
 LPレコードは、こよなくいとおしい人生の記録である・・・

B氏というと、ベートーヴェンか?ブラームスか?はたまたブルッフなのか?思わせぶりである。ベルク?、ある天使の思い出に・・という副題の十二音技法の名曲だって考えられる。あの曲では、バッハの旋律がクラリネットで奏でられた瞬間、打ちのめされた経験があるが、それはまたこの次の機会に回して、ニ長調の作品61、というともうお分かりのこと。      
 ベートーヴェンもブラームスも、チャイコフスキーもニ長調が第一楽章の調性である。GトDニAイEホという4本の弦を自在に操り、ヴァイオリンは演奏される。1982年10月6日札幌厚生年金会館に、38歳のウート・ウーギが札幌交響楽団230回定期に登場、ストラディバリウス、ヴァン・ホーテンを使用して名演奏を披露した。彼は不動の姿勢を保ちつつ、第一楽章後半から左側、そして右側へと体を向けて、美音を隈なく伝えていたのが印象に残っている。彼の楽器は、クロイツェルが使用していたものと云われている。    
 そんな経験があり、ストラディヴァリに対してはとりわけの親しみがある。札幌市民会館では、サルヴァトーレ・アッカルド、彼はナタン・ミルシュテインにも師事しているとのこと、そのコンサートで、B氏のクロイツェル・ソナタ、ピアニストのブルーノ・カニーノの名演奏でも強く記憶に新しい。終演後の楽屋でコーヒーを一服していたA氏に、使用した楽器の質問をすると、ストラディヴァリ、セヴンティーン・トゥエンティーと明快に答えて頂いたのはうれしいことだった。      
 親しい知人からファクシミリが届き、新聞記事切り抜きで、聴衆 現代製に軍配、ストラディバリウス負けた・・という見出しが目に飛び込んできた。一体これは何事ぞ?というと、演奏者にはどちらのバイオリンかわからないようにソロで弾いてもらい、どちらの音色がよく響くかなどを、聴衆が評価したという。演奏された楽器がストラディバリウスかどうかを聞いた質問の正答率は44・7%で、名器の音色を聞き分けられなかったこともわかった・・という記事の内容。楽器の音色判断は、かなりむつかしいもので、だいいち、ストラディバリウスの音色に親しんでいる聴衆は、どれだけ居たのか?正答率は、すなわち、それほど識別することは難しい証左であり、演奏行為というものは、名人技というものにより実現されるものであって、それをもって、現代製品の優秀性のアッピールとは、いかがなものか?というのが盤友人の感想であり、新聞報道、とりわけ見出しの、結論そしてその言わんとするところに、疑問を持たざるをえない。見出しを打ち出した記者の判断は、どこにあるのか?その記者個人の価値観に対して疑問を呈したい。つまり、その見出しでは、ストラディバリウスを否定することにもなるのだが、それは、正しい判断と言えるのか?ということである。     
 聴衆の音好みと、名器の真価との一体感は微妙な関係であって、この見出しは、事実の報道、研究チームの論文紹介という側面と、名器を現代製品より格下という指摘をする紙一重のところにあるのではないか。     
 新春TV番組で楽器の音色判断するものは、解答者の正誤結果を愉しむのであり、楽器の音色の判断をどうするものでもない。人の失態を笑うというのは、あるまじきであるのだが、新春に免じてその滑稽さを初笑いの対象にしているだけ。B氏の協奏曲は第二楽章で独奏楽器とオーケストラがピッツィカートという弦をはじく音楽がしばらく続く。いつか雨宿りをしていてそのうちに、天気が晴れ渡っていく感じがし、続く第3楽章のロンドは、実に壮快になる。

 5月9日に札幌でライラックの開花宣言。白梅七分、紅梅二分咲きの平岡梅林公園から便りあり。  
 四月二十八日、当地で桜の開花が伝えられて、5月7日に新聞で中央区103歳女性の訃報を目にした。千曲万来余話その246で発信していた盤友人の、小学生と高校生時分にピアノ教授して頂いていた先生、桜の便り当日のご逝去だった。十年前以来年賀絶たれていて、そしてご天寿を全うされた。晩年は、書の道に励まれていたとのこと。ここに謹んで、ご冥福をお祈り致します。   音楽とは、生きているものの営みで死者に対して、何の意味があろうか?と言ってレクイエム、鎮魂曲を否定する音大学生が、神戸の友人だった。彼は今もそのように語るのだろうか?死者は亡骸であるのだが、霊魂を認める、認めないにしても、モーツァルトのケッヘル番号626、この音楽を演奏する喜びは、何ものにも代えがたいものがある。天空の宇宙は鳴動するがごとくであるとおっしゃっていた方がいる。画家横尾忠則の実感。盤友人も、同感であり、その演奏経験はザルツブルグ・モーツァルテウム音楽院管弦楽団を前にして、ハンス・グラーフが指揮していた。昭和最期の12月、札幌厚生年金会館でのコンサート。 
 あのオーケストラで、3人のコントラバスのうちの若いブロンド女性奏者、ふくよかな低音域でスウイングしていたのが印象的。コーラスメンバーは120名だった。ティンパニー奏者の風貌はエルネスト・アンセルメそのもので、いかにも音楽家勢ぞろいの感がした。 
 モーツァルトの作曲は、第8曲、涙の日ラクリモーザの8小節ほどまでが自作で、弟子のジェスマイヤーが続きを補っている。後半は、メモを基にした管弦楽版で、モーツァルト35歳の絶筆、7月から書き起こされて12月に人生を閉じている。ケッヘル番号626というのは、625の次の数字、ということは、5の4乗という絶対完成から次の1曲という次第で、意味深長だ。 
 カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団合唱団、1960年録音は、テレフンケン・レコード、ステレオ録音で古典的な名盤。 
 オーケストラは、従来のコントラバス上手側配置で、合唱はソプラノが指揮者左手側で、アルトは前列右手側、後列にはテノール左手側、上手側にバスが配置されている。ステージ上で、パレットとして、左右に対話する声部、その上に奥行きとして前列女声、後列男声というのが理想とする配置。横一列に、S、A、T、Bというのが現代の主流なのであるがこれは、理想とする配置にあらずして、単層構造という現代のファッションであって、いかにも、横一列に四声部というのは、効果が下がるということに気がついていない。モーツァルトの音楽としては、左右二声部の対話こそ望まれる理想配置である。
 レクイエム、エテルナム、ドーナエイス、永遠に魂の鎮まることを祈る、キリエ、エレイソン、神よ憐み給え、クリステ、エレイソン!キリストよ憐み給え!ドーナ、ノービス・パーチェム。 
 Sソプラノ歌手、マリア・シュターダー、Aアルト、ヘルタ・テッパー、Tテノール、ヨーン・ヴァン・ケステレン、Bバス、カール・クリスティアン・コーン。それぞれ、ソリストの立派な歌唱を耳にして、一層、魂の平安を覚える一枚である。

ベルンハルト・パウムガルトナー1887・11・14~1971・7・27ウィーン出身で、法学を学びそして指揮をワルターらに学ぶ。1955年頃録音、ウィーン交響楽団、ナップ・デ・クリンらの独奏者たちとモーツァルト、協奏交響曲変ホ長調、ヴァイオリンとヴィオラのためのK364は1779年作曲、 を録音している。          ヴィオラ=アルトは形がヴァイオリンより大き目で、中音域を受け持っている。ハーモニー和声の内声で、そんなに目立つ楽器とはいえない。けれど、人の声の音域に当たり、渋い音色でリズムは後打ちという合奏でも重要な任務を持っている。形がヴァイオリンと似ているということは、なかなか区別がつきにくいという面を持っているということではあるまいか?     
 楽器の構造で、ヴァイオリンと決定的に異なるポイントは、ハートポスト魂柱の有無である。すなわちヴァイオリンはその働きにより、ある音域の以下で裏板が振動する仕掛けになっている。だから、あのように表と、裏の振動を使い分けているのだが、それはスイッチにより切り替えるのと訳が違って、魔法である。だからヴァイオリンの名技性はそのマジックの発揮によるところが大きい。アルトは、その点でチェロと同一で楽器の胴体の共鳴を聞かせている。   
 不思議なもので、オーディオ装置の向上は楽器の個性を表現してくれる。すなわち、以前はヴァイオリンも、アルトも似たような弦楽器程度の違いでしかない表現でとどまっていた。ところが、最近のグレードでは、ヴァイオリンとアルトの音色、楽器構造特徴の違いを感じさせてくれるまで、性能が高められている。     
 コンサートのプログラム編成の要注意ポイントとして、モーツァルトの楽曲をどの順番にもってくるか?がある。すなわち、冒頭に持ってきたとき、師匠といえる方からは、二番目にしたら?というアドヴァイスを受けるという。それくらい、モーツァルトの楽曲は、危険、演奏上でのポイントがあるといわれている。それは、たぶん、リズム、テンポの設定が非常にむつかしいというところにあるのだろうと思われる。その点、ハイドンや、ベートーヴェンの楽曲の方が演奏しやすいといえるのだろう。その点で、パウムガルトーの指揮は、モーツァルト指揮者として、抜群の信頼感を持っているといえる。似た指揮者の名前に、ルドルフ・バウムガルトナーといものもあるけれど、それは、スイス人指揮者ことで、注意が必要である。             
 パウムガルトナーはザルツブルグ・モーツァルテウム音楽院の楽長を歴任していて、モーツァルト楽曲のエキスパートといえる。ウィーン交響楽団、特にウィーナーホルン奏者による名技が印象的である。耳に残る演奏とは、このフィリップスレコードの大きな特徴のことといえる。

シューベルトの生きていた時代に、オーディオ装置があったわけではない。けれどもピアノ五重奏曲・鱒は、ヴァイオリン、アルト、チェロ、コントラバス、そしてピアノという具合で、オーディオ装置のチェックに最適である。ステージ左手側に弦楽器、コントラバス、チェロ、アルト、その前にヴァイオリンそして対する右手側にピアニストが背中で彼らの音楽を聴いて右手側に位置するのが理想とする配置である。    左スピーカーで弦楽器、右スピーカーでピアノという図式で、中央にアルトというのは、左右をつなぐ上で必要といえる。ピアノの右側配置が音楽的な対話の上で、左側にコントラバスがリズムを刻むとすると、その対比が絶妙であり、ステレオ録音の魅力全開であろう。今までそのような音楽に出会ったことは無くて、画に描いた餅、有ったらいいなという話で、モノーラルレコードで想像する世界。それにしても、コントラバスの音楽は、オーディオチェックに最適の音源である。この音響の広がり感は、低音域の出方を表現してチェックに都合がよい。CBSコロンビアLPレコードで、ミエスチラフ・ホルショフスキのピアノ、ブダペスト四重奏団員、1962年頃録音、雄大で新鮮な演奏、モノーラルだから古めかしいだろうという先入観念とは無縁のシューベルト演奏になっている。歌うようなメロディーライン、ぎっしりと隙のないアンサンブル、そして、躍動感と三拍子そろっている。      
 ここでモノーラル録音のアナログ再生法の技術について、指摘しなけばならない要点がある。それは、ピックアップ、カートリッジの針圧についてである。オルトフォンSPUモノの初期タイプAというものは、重めの圧がふさわしく、Cタイプは比較的軽めの6グラム程度のものという使い分けが必要となる。つまり、ステレオ針でも再生可能なのだけれど、モノーラルカートリッジの豊かな世界は、そのカートリッジにしか再生できない世界なのだ。   
周波数レンジというFレンジの広さは、広いだけでなく音圧が充実した手応えある再生が目的である。そして、針圧の調整により、左右の分離ではなく、一体感の広がりがポイント。中央につまり感があるのは、さらに、広がり感が求められる。それには、針圧による具合の調整が微妙だということ。    
 レンジが一番広いのはピアノという楽器で、弦楽器のコントラバスからヴァイオリンまでの音楽はその広がり感がたまらなく、愉悦感を与えてくれる。シューベルトは、そこのところ、うまく衝いている・・・音にではなく、音楽のために!

メーデーに帯広から桜開花の報道、函館五稜郭で満開、札幌は先月28日に開花宣言、東京は、ひと月前の話、日本列島は南北に長いということである。    
  札幌に桜前線到着の頃、プリアンプとフォノイコライザーのチェックが出来て、低音域の音質改善を図ることが可能となった。今までミスマッチだったというか、オーケストラでコントラバスの音圧を上げることが出来たのである。これは、明らかな展開であり、バッハやベートーヴェンの管弦楽曲再生が、醍醐味を加えることになった。もちろん中音域にも手ごたえが向上して、モーツァルトの室内楽が、にわかに面白みを増したのだ。ピアノと管楽器のための五重奏曲変ホ長調K452は1784年3月30日作曲、これまでに書いた最高のものと自身に云わしめた室内楽で、これをワルター・ギーゼキングのピアノと、デニス・ブレインたち合奏による1955年4月15日録音のこの上ないアンサンブルが素敵である。   
 モノーラル録音であることが幸いして、楽器配置問題、自由自在な思い巡らしを楽しんだ。これはピアノ中央配置型であろうことを思わせる。左右に管楽器が展開していて、左手側にオーボエを、その奥にファゴット、右手側にクラリネット、その奥にフレンチ・ホルンという図式が目に浮かぶ。それは左右の対話、その上にオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットという旋律の受け渡しのスムーズさが理想的だからである。   
 ギーゼキングのピアノは、音楽が響き豊かな上に、フレーズが明快、強弱の自然な呼吸で変幻自在なタッチが極上、この曲の理想とするピアニストであたかも、モーツァルトのあの絵の赤いジャケット姿が目に浮かぶ。管楽器では、シドニー・サトクリフのオーボエが実に魅惑的な音色を披露していて耳を引き付ける。フレンチ・ホルンというコントロールが難しく音を外しやすい楽器で、楽々演奏し錦上華をそえているのがデニス・ブレイン。 薄紅色、というかきらびやかで豊かな音量のホルン奏者、デニスの前にデニスなく、デニスの後にデニスなしとまで言われた天才音楽家、彼は、いつも音を外すリスクを微妙にコントロールして演奏を披露していたのだった。ハイトーン、高音域のスマートな演奏は、天性の、天賦の才能に不断の努力を気付かせることのない、無上の音楽性である。オーボエとファゴットのデュエット二重奏に対比して、クラリネットとホルンの柔らかな歌が、ピアノの舞台左右に展開する様は、ステレオ録音ではなかなか、出会えない展開ではある。逆に、モノーラル録音で、イメージを自由に働かせるのも一興であろう。これは、管楽器固有の響きを遺憾なく発揮した上での話なのであり、オーディオの醍醐味の一つである。      あえて付け加えるとすると、今だ理想とするステレオ録音とは出会っていなくても、モノーラル録音ではその想像をかきたてる世界なのである。この録音の二年後、デニスに悲劇が待ち受けていたとは、誰も知らなかったことである。桜の季節になぜか、モーツァルトの愉悦が身に染みて、オーディオの喜び、オイロダインの豊かな音楽に、愛は悲なりという言葉、慈悲、慈愛と、いつくしみを添える教えを受けた青春の日々をよみがえらせる幸せをブログで発信したいと思う。うーすべに色の・・・

第一とか第二ヴァイオリンとか、もういいんでないかい?とある人から言われて、盤友人、まだまだ言いたいことがある・・・と言い返す。たぶん、サイトウォッチャー諸姉諸兄におかれまして、ウンザリという方は、すぐさまサイトを別画面にというパターンと、今度は何かな?という我慢強い方といらっしゃることだろう。その一人の方のためにでも、腕によりをかけてブログ発信を心がける。・・・モノーラル録音の話。すなわち、左右のスピーカーからではなく、二台のスピーカー、混然一体となった音源が相手の話である。札幌音蔵社長KT氏始めTY氏など、オーディオに限らずコンサート会場でも、聴くときは、モノーラルの感覚で聴いているんだよ!とおっしゃる。     
  なるほど、常識の一つに演奏の基本はモノーラルという感覚が、オーディオ関係者によく聞く話であるのだが、それでは、弦楽四重奏の場合は、いかがであろうか?聴く立場では、なにもこだわることがないだろうという。ところが、演奏する立場では、様々な、楽器配置が考えられる。つまり、ヴァイオリンが第一と第二ヴァイオリンという二台の演奏が、あるという音楽なのである。アルト=ヴィオラ、チェロという低音域の楽器と四台の楽器による音楽の、理想とするものはどこにあるのか?という疑問である。     
 答えの一つに、作曲家は、どのような配置にあっても構わないというものがある。それは、その通りなのだが、演奏効果が最大の楽器配置は?というと、答えは、一通りに至る話ではないだろうか?それが、ヴァイオリン両翼配置というものである。第一ヴァイオリンの隣に、ヴァイオリンではなくて、チェロを配置させるという発想が、第二次大戦以前の音楽界では、有力であったのである。その後、演奏風景写真は、両翼配置がネグレクトされて、現在の時代を象徴する第一と第二ヴァイオリンを並べるのが主流となったのだろう。時代というもの、現象を深く考察する力が、問われている。     
 ここで、モノーラル録音による弦楽四重奏の話、モーツァルトの曲にハイドンセットという六曲、師匠ハイドンに献呈された音楽がある。第一番ト長調K387というのが、弦楽四重奏曲第14番である。ちなみに、第六番ハ長調は不協和音というニックネイムでK465。1785年作で3年がかりで六曲を作り、最後が不協和音というと、何か意味ありげな話ではあるのだが、曲の開始が、調性を不安定にしている音楽であって、曲全体の話ではない。弦楽四重奏の多様な音楽が作曲されていて、モーツァルトそのビッグネイムの神髄に触れることが出来る。    
 ヴィアノーヴァ四重奏団、フランス・エラートのレコードが箱物で入手できる。1974年前後の録音で、馥郁たる音響を楽しむことが出来る。音響のみならず、音楽の愉悦ここにありといえる、極めつけのレコード。低音域の支えは、チェロの演奏でまかなえる。それぞれの四重奏団の特色は、チェリストの力量に左右されることが多いのだが、ここでは、軽快、明瞭な演奏が記録されている。演奏する楽器配置で、それをパレットに見立てると、奥行きとして左右でチェロ、アルトが設定されて、手前左右に第一と、第二ヴァイオリンが展開されると、作曲者の前提とする楽器配置なのであろう。チェロ、アルトという左右の旋律が演奏されて、第二そして第一ヴァイオリンという具合に引き継がれて音楽が渦を巻く。ハイドンセットをモノーラル録音で再生しても、ヴァイオリン両翼配置が頭に浮かぶ、盤友人である。

 

グスターヴ・ホルスト1874921チェルトナム生~1934525ロンドン没は、1918929日に、組曲惑星作品32を初演させている。ネプチューン海王星では、舞台裏で女声コーラスが加わり神秘的な音楽のおしまいを迎える寸法になっている。ここでは合唱指揮者と舞台上での指揮者と掛け合いというか、あうんの呼吸を楽しめるのだから、コーラスが舞台上に姿を現しては、作曲者の意向を忖度していない解釈にすぎない。そこで指揮ぶりを見せつけられたとしたら興冷めはなはだしいといえるだろうし大体、音楽を台無しにする。そうすることは無粋極まりない。舞台袖で少し楽に演奏してこそ、神秘的な効果がいやがうえにも増す寸法であり、すなわち巧みな音楽設計なのだから作曲者の音楽を、尊重した上で料理するのが指揮者の腕前というもの、ボールト卿が指揮したニューフィルハーモニア管弦楽団の録音は、その意味でも並みの演奏を超えてる。チェレスタを使用するなど、管弦楽法の色彩感を発揮して極上の音楽を味わうことが出来る作曲になっている。生の演奏では、それを体現させるべく記録されているこのLPは、踏み絵といえるかもしれない。オーケストラの力量は充分で、指揮者はその上を求められているから、それは無の境地こそ望ましい姿といえるのだ。      
 このレコードの演奏の特色は、管楽器、弦楽器、打楽器とそれぞれの音色が鮮やかに聞き取れるところにある。すなわちそれぞれの楽器の前にマイクロフォンが設置されているのではない。演奏上、巧みにオンビートの手前で音が発せられていて、音楽に推進力が感じられ、音量もメゾ・ピアノ、ピアノという弱い音量でも聞き取れるという聴かせるテクニックの上に成り立っているのである。生の演奏会では、音量設定がメゾ・フォルテ以上に設定されがちで、音楽に深みがなくなってしまいやすい。レコードというものは、バランスエンジニアという録音技師の腕前の上に、指揮者の巧みな音楽性がものをいっている。だからその意味でボールト卿は、凡百の指揮者と明らかに一線を画しているといえる。EМIの数ある名盤の中で、一際精彩を放っている。左右のスピーカーから、ヴァイオリンの音色が聞き取れるということは、第一と、第二ヴァイオリンの演奏が左手側にまとめられて高音域、右手側にはコントラバスの低音域というステレオ録音設定が、なんと胡散臭いかこのレコードは証明している。     
 レコード音楽は無数に存在するのだが、満足するものは希少で、砂金のような価値があるといえる。       
 日本市場では、見えざる手で選択され、多数がヴァイオリンをそろえたオーケストラ配置の音楽になっているのは、もはや、不幸といえる現実だろう。それは指揮者の都合で、演奏のし易い配置、無難な設定の、というのは演奏者たちがしやすい選択になっている。それは、時代というもので、全て右に倣えであるものなのだ。現代、音楽の高みが求められていて、演奏者たちの選択を超えて、聴衆に満足をもたらす音楽こそ、プロフェッショナルな交響楽団に求められているといえるだろう。ネプチューン海王星という神秘の惑星が、天上に響き渡るという発想は、海の底から頭の上へとイメージがつながりを見せ、それは、作曲者の世界、時は第一次世界大戦という歴史の上でも、悲惨な時代の最中に作曲されたことは、記憶されて良いことであり、何が一番大切なことなのかを考えさせるのも、
100人を超える演奏者たちの音楽なのである。

 

 

最近、喫茶店でも室内禁煙というところが増えている。愛煙家が居づらくなったように思われるが、マスターは気づかいをして、玄関の脇に吸い殻入れスタンドを設置しているのだから、そこで一服してから入店されると良い具合になっているのだ。煙草というもの、仕事の上のストレスと表裏の関係にあるから、そのストレス解消、発散の工夫をすれば良いと思われる。特に、リタイアされた方は、仕事をやめて煙草も辞める、それがなによりであろう。盤友人にはエンのない話ではある。 
 ケッヘル番号KVというものは、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル1800~77によって作られたモーツァルト全作品の作曲年代順リストに付された番号のことである。1776年2月、ザルツブルグで作曲された三台ためのクラヴィア協奏曲ヘ長調、これは、グランド・ピアノの前身である鍵盤楽器のためのコンチェルト。モーツァルト1756~91の活躍した時代では、ピアノフォルテといういわゆる現代通称ピアノという鍵盤楽器ではなくて、クラヴィーアという室内での音楽に合ったサイズの楽器で演奏がなされていた。もともと、ピアノフォルテというのは、弱い強いという音量のことで、自由自在に音量が演奏できる楽器のことを指す言葉といえる。協奏曲第4番は、アントニア・ロドロン伯爵夫人とその二人の娘のために作曲されている。三台用協奏曲のことを協奏曲ロドゥローンとも云われる。
 ザ・メニューイン・ファミリーと銘打たれたLPレコード、ヘフツィバー、ヤルタ、ジェレミーそして指揮しているのがユーディー・メニューイン。1965年頃録音でロンドン・フィルハーモニック管弦楽団、ジャケット写真で中央に指揮棒構えるユーディーを囲むように3台のグランド・ピアノ、反響板とりのぞきのスタイル。上手かみてにはアルト・ヴィオラとヴァイオリン、写真の下方、チェロとヴァイオリンの姿が映っている。レコードを再生すると、左スピーカーからはヴァイオリンとチェロ、右スピーカーから、アルトとヴァイオリンの演奏が聞こえてくる仕掛けである。なぜそのように楽器配置されているのかというと、そのように配置をした方が演奏効果抜群といえるからだろう。このレコードB面は、変ホ長調K365の、2台用ピアノ協奏曲。
 オーケストラ配置は、通常のヴァイオリン、アルト、チェロという形で、バース祝祭管弦楽団。指揮者左手側にヘフツィバー、右手側に第一ピアノでフー・ツォン、というように聞こえる。
 これは、ジャケットの表記が、先にフーツォン、そしてヘフツィバー・メニョーインとあることによる判断で、ピアノのタッチもスピーカー右手側からは、硬質のタッチが再生されるから面白い。ピアノの音色は、木質風の倍音豊かなタッチである。オーケストラの違いにより、楽器配置も区別されているのだが、EМIの商業的配慮も考えられる。指揮者オットー・クレンペラーは、ヴァイオリン両翼配置でステレオ録音のスタイルを確立していて、同時に頑固者という印象を与えているのだが、カラヤンやベームという指揮者にはその印象は語られない。第一と第二のヴァイオリンを束ねる指揮者は、頑固者というレッテルをはられないのだが、それは、可笑しなものだろう。これからの時代、指揮者たちはいつまでも、ヴァイオリンを束ねる楽器配置にしないで、シューベルトの交響曲グレート、などを演奏してほしいものである。

ステレオ録音によるモーツァルト作品の愉しみに、そのオーケストレイション管弦楽法の妙味があるのだけれど、滅多にその神髄に出会うことはない。ところが、このエイドリアン・ボールト卿の指揮するト長調のピアノ協奏曲は飛び切りの名演奏、名録音である。クリストファー・ビショップによるプロデュースというので貴重なもの。EMIというレーベルは、イギリスを代表するLPレコード。左右両スピーカーから流れ出す音楽が実に雄弁であってこれが、貴重。   
  先日、札幌音蔵社長KT氏と、信頼する技術者SK氏お二人の手により、愛器オイロダインのヴォイスタッチというトラブルの修理をクリアすることができた。メンテナンスと使用されているケーブルの交換に加えてその上、手を入れて、スピーカーからあふれ出る音楽で、録音空間情報の豊かさに、震える思いを経験した。ザラついた弦楽器は、透明感が一層の向上を見せて磨きがかかり、コントラバスの豊かな音楽性に、安定感が加えられる。豊穣の音響世界、プラス演奏者たちの演奏意欲表現に存在感が上乗せさせられた。アンドレ・プレヴィンによる1967年頃録音、そのまろやかなピアノのタッチ、風合いは、表現する言葉がむなしく感じられる。極上の音楽は、LPレコード歴史上ピークを成すもの、それが、日本のレコード市場では流通していなかった。盤友人は、偶然入手できていたもので、それは今日、蘇ったものといえる。不思議なもので、時間が経過して、こちらのコンディションが巡り巡って、真価が発揮されたのだ。レコード、それ自体が宝物であっても、持主のポテンシャルがそれなりに高まることにより、輝きを放ったのである。  
 これは、レコードコレクターを自認する人なら、理解可能な話なのである。レコードそれ自体はただのヴィニールに過ぎなくて、オーディオ装置の手を通して音楽が再生されて、モーツァルトの愉悦を鑑賞することが可能となる。 さらに言うと、音盤を回した人が音楽情報を発信し、サイトアクセス・ウォッチャーが情報を受容して初めて、その世界は、イメージ・サイクルが成立して、モーツァルトの音楽が再生されたことになる。作曲者、演奏者、鑑賞再生者、情報受容者という時空世界の創出である。そのとき、演奏者による、ヴァイオリン両翼配置選択は、キーワードである。なぜなら、スピーカーは左右二台であり、その情報は第一と第二ヴァイオリンの音楽の展開が、左右二チャンネルによることにより、演奏は、相乗効果を発揮するからである。ヴァイオリン、アルト、チェロ、コントラバスの音響が、横一列に並ぶステレオ録音多数派の音楽とは、一線を画する。この違いは、最近での、音楽情報に敏感な人には、理解が可能な話であって、テレヴィ番組、題名のない音楽会で、高関健指揮する、東京シティーフィルハーモニックの演奏を視聴することができる。それは大変に、貴重な話であるのだ。この楽器配置、演奏者たちは、言葉で語る話ではなく、演奏選択肢の一つの話なのであって、ハードルは高く、今まで封印されていた世界、あえていうと、昭和の前期には普通であった配置でも、戦後には選択されなかった楽器配置で、二十一世紀に入って再興された音楽なのだ。 
 エイドリアン・ボールトは、アルトゥール・ニキッシュに師事した英国の指揮者で残されたディスクは、全てではなく、その多数が両翼配置による。そのことによるものかどうか、日本の市場には、なかなか、紹介されなかった不遇の大指揮者で、これから、再認識されても良い記録を残している。ロンドン交響楽団、冒頭から活躍する首席ホルンは、バリー・タックウェルだろうか?