🎼 千曲盤来余話 by盤友人

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第一とか第二ヴァイオリンとか、もういいんでないかい?とある人から言われて、盤友人、まだまだ言いたいことがある・・・と言い返す。たぶん、サイトウォッチャー諸姉諸兄におかれまして、ウンザリという方は、すぐさまサイトを別画面にというパターンと、今度は何かな?という我慢強い方といらっしゃることだろう。その一人の方のためにでも、腕によりをかけてブログ発信を心がける。・・・モノーラル録音の話。すなわち、左右のスピーカーからではなく、二台のスピーカー、混然一体となった音源が相手の話である。札幌音蔵社長KT氏始めTY氏など、オーディオに限らずコンサート会場でも、聴くときは、モノーラルの感覚で聴いているんだよ!とおっしゃる。     
  なるほど、常識の一つに演奏の基本はモノーラルという感覚が、オーディオ関係者によく聞く話であるのだが、それでは、弦楽四重奏の場合は、いかがであろうか?聴く立場では、なにもこだわることがないだろうという。ところが、演奏する立場では、様々な、楽器配置が考えられる。つまり、ヴァイオリンが第一と第二ヴァイオリンという二台の演奏が、あるという音楽なのである。アルト=ヴィオラ、チェロという低音域の楽器と四台の楽器による音楽の、理想とするものはどこにあるのか?という疑問である。     
 答えの一つに、作曲家は、どのような配置にあっても構わないというものがある。それは、その通りなのだが、演奏効果が最大の楽器配置は?というと、答えは、一通りに至る話ではないだろうか?それが、ヴァイオリン両翼配置というものである。第一ヴァイオリンの隣に、ヴァイオリンではなくて、チェロを配置させるという発想が、第二次大戦以前の音楽界では、有力であったのである。その後、演奏風景写真は、両翼配置がネグレクトされて、現在の時代を象徴する第一と第二ヴァイオリンを並べるのが主流となったのだろう。時代というもの、現象を深く考察する力が、問われている。     
 ここで、モノーラル録音による弦楽四重奏の話、モーツァルトの曲にハイドンセットという六曲、師匠ハイドンに献呈された音楽がある。第一番ト長調K387というのが、弦楽四重奏曲第14番である。ちなみに、第六番ハ長調は不協和音というニックネイムでK465。1785年作で3年がかりで六曲を作り、最後が不協和音というと、何か意味ありげな話ではあるのだが、曲の開始が、調性を不安定にしている音楽であって、曲全体の話ではない。弦楽四重奏の多様な音楽が作曲されていて、モーツァルトそのビッグネイムの神髄に触れることが出来る。    
 ヴィアノーヴァ四重奏団、フランス・エラートのレコードが箱物で入手できる。1974年前後の録音で、馥郁たる音響を楽しむことが出来る。音響のみならず、音楽の愉悦ここにありといえる、極めつけのレコード。低音域の支えは、チェロの演奏でまかなえる。それぞれの四重奏団の特色は、チェリストの力量に左右されることが多いのだが、ここでは、軽快、明瞭な演奏が記録されている。演奏する楽器配置で、それをパレットに見立てると、奥行きとして左右でチェロ、アルトが設定されて、手前左右に第一と、第二ヴァイオリンが展開されると、作曲者の前提とする楽器配置なのであろう。チェロ、アルトという左右の旋律が演奏されて、第二そして第一ヴァイオリンという具合に引き継がれて音楽が渦を巻く。ハイドンセットをモノーラル録音で再生しても、ヴァイオリン両翼配置が頭に浮かぶ、盤友人である。

 

グスターヴ・ホルスト1874921チェルトナム生~1934525ロンドン没は、1918929日に、組曲惑星作品32を初演させている。ネプチューン海王星では、舞台裏で女声コーラスが加わり神秘的な音楽のおしまいを迎える寸法になっている。ここでは合唱指揮者と舞台上での指揮者と掛け合いというか、あうんの呼吸を楽しめるのだから、コーラスが舞台上に姿を現しては、作曲者の意向を忖度していない解釈にすぎない。そこで指揮ぶりを見せつけられたとしたら興冷めはなはだしいといえるだろうし大体、音楽を台無しにする。そうすることは無粋極まりない。舞台袖で少し楽に演奏してこそ、神秘的な効果がいやがうえにも増す寸法であり、すなわち巧みな音楽設計なのだから作曲者の音楽を、尊重した上で料理するのが指揮者の腕前というもの、ボールト卿が指揮したニューフィルハーモニア管弦楽団の録音は、その意味でも並みの演奏を超えてる。チェレスタを使用するなど、管弦楽法の色彩感を発揮して極上の音楽を味わうことが出来る作曲になっている。生の演奏では、それを体現させるべく記録されているこのLPは、踏み絵といえるかもしれない。オーケストラの力量は充分で、指揮者はその上を求められているから、それは無の境地こそ望ましい姿といえるのだ。      
 このレコードの演奏の特色は、管楽器、弦楽器、打楽器とそれぞれの音色が鮮やかに聞き取れるところにある。すなわちそれぞれの楽器の前にマイクロフォンが設置されているのではない。演奏上、巧みにオンビートの手前で音が発せられていて、音楽に推進力が感じられ、音量もメゾ・ピアノ、ピアノという弱い音量でも聞き取れるという聴かせるテクニックの上に成り立っているのである。生の演奏会では、音量設定がメゾ・フォルテ以上に設定されがちで、音楽に深みがなくなってしまいやすい。レコードというものは、バランスエンジニアという録音技師の腕前の上に、指揮者の巧みな音楽性がものをいっている。だからその意味でボールト卿は、凡百の指揮者と明らかに一線を画しているといえる。EМIの数ある名盤の中で、一際精彩を放っている。左右のスピーカーから、ヴァイオリンの音色が聞き取れるということは、第一と、第二ヴァイオリンの演奏が左手側にまとめられて高音域、右手側にはコントラバスの低音域というステレオ録音設定が、なんと胡散臭いかこのレコードは証明している。     
 レコード音楽は無数に存在するのだが、満足するものは希少で、砂金のような価値があるといえる。       
 日本市場では、見えざる手で選択され、多数がヴァイオリンをそろえたオーケストラ配置の音楽になっているのは、もはや、不幸といえる現実だろう。それは指揮者の都合で、演奏のし易い配置、無難な設定の、というのは演奏者たちがしやすい選択になっている。それは、時代というもので、全て右に倣えであるものなのだ。現代、音楽の高みが求められていて、演奏者たちの選択を超えて、聴衆に満足をもたらす音楽こそ、プロフェッショナルな交響楽団に求められているといえるだろう。ネプチューン海王星という神秘の惑星が、天上に響き渡るという発想は、海の底から頭の上へとイメージがつながりを見せ、それは、作曲者の世界、時は第一次世界大戦という歴史の上でも、悲惨な時代の最中に作曲されたことは、記憶されて良いことであり、何が一番大切なことなのかを考えさせるのも、
100人を超える演奏者たちの音楽なのである。

 

 

最近、喫茶店でも室内禁煙というところが増えている。愛煙家が居づらくなったように思われるが、マスターは気づかいをして、玄関の脇に吸い殻入れスタンドを設置しているのだから、そこで一服してから入店されると良い具合になっているのだ。煙草というもの、仕事の上のストレスと表裏の関係にあるから、そのストレス解消、発散の工夫をすれば良いと思われる。特に、リタイアされた方は、仕事をやめて煙草も辞める、それがなによりであろう。盤友人にはエンのない話ではある。 
 ケッヘル番号KVというものは、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル1800~77によって作られたモーツァルト全作品の作曲年代順リストに付された番号のことである。1776年2月、ザルツブルグで作曲された三台ためのクラヴィア協奏曲ヘ長調、これは、グランド・ピアノの前身である鍵盤楽器のためのコンチェルト。モーツァルト1756~91の活躍した時代では、ピアノフォルテといういわゆる現代通称ピアノという鍵盤楽器ではなくて、クラヴィーアという室内での音楽に合ったサイズの楽器で演奏がなされていた。もともと、ピアノフォルテというのは、弱い強いという音量のことで、自由自在に音量が演奏できる楽器のことを指す言葉といえる。協奏曲第4番は、アントニア・ロドロン伯爵夫人とその二人の娘のために作曲されている。三台用協奏曲のことを協奏曲ロドゥローンとも云われる。
 ザ・メニューイン・ファミリーと銘打たれたLPレコード、ヘフツィバー、ヤルタ、ジェレミーそして指揮しているのがユーディー・メニューイン。1965年頃録音でロンドン・フィルハーモニック管弦楽団、ジャケット写真で中央に指揮棒構えるユーディーを囲むように3台のグランド・ピアノ、反響板とりのぞきのスタイル。上手かみてにはアルト・ヴィオラとヴァイオリン、写真の下方、チェロとヴァイオリンの姿が映っている。レコードを再生すると、左スピーカーからはヴァイオリンとチェロ、右スピーカーから、アルトとヴァイオリンの演奏が聞こえてくる仕掛けである。なぜそのように楽器配置されているのかというと、そのように配置をした方が演奏効果抜群といえるからだろう。このレコードB面は、変ホ長調K365の、2台用ピアノ協奏曲。
 オーケストラ配置は、通常のヴァイオリン、アルト、チェロという形で、バース祝祭管弦楽団。指揮者左手側にヘフツィバー、右手側に第一ピアノでフー・ツォン、というように聞こえる。
 これは、ジャケットの表記が、先にフーツォン、そしてヘフツィバー・メニョーインとあることによる判断で、ピアノのタッチもスピーカー右手側からは、硬質のタッチが再生されるから面白い。ピアノの音色は、木質風の倍音豊かなタッチである。オーケストラの違いにより、楽器配置も区別されているのだが、EМIの商業的配慮も考えられる。指揮者オットー・クレンペラーは、ヴァイオリン両翼配置でステレオ録音のスタイルを確立していて、同時に頑固者という印象を与えているのだが、カラヤンやベームという指揮者にはその印象は語られない。第一と第二のヴァイオリンを束ねる指揮者は、頑固者というレッテルをはられないのだが、それは、可笑しなものだろう。これからの時代、指揮者たちはいつまでも、ヴァイオリンを束ねる楽器配置にしないで、シューベルトの交響曲グレート、などを演奏してほしいものである。

ステレオ録音によるモーツァルト作品の愉しみに、そのオーケストレイション管弦楽法の妙味があるのだけれど、滅多にその神髄に出会うことはない。ところが、このエイドリアン・ボールト卿の指揮するト長調のピアノ協奏曲は飛び切りの名演奏、名録音である。クリストファー・ビショップによるプロデュースというので貴重なもの。EMIというレーベルは、イギリスを代表するLPレコード。左右両スピーカーから流れ出す音楽が実に雄弁であってこれが、貴重。   
  先日、札幌音蔵社長KT氏と、信頼する技術者SK氏お二人の手により、愛器オイロダインのヴォイスタッチというトラブルの修理をクリアすることができた。メンテナンスと使用されているケーブルの交換に加えてその上、手を入れて、スピーカーからあふれ出る音楽で、録音空間情報の豊かさに、震える思いを経験した。ザラついた弦楽器は、透明感が一層の向上を見せて磨きがかかり、コントラバスの豊かな音楽性に、安定感が加えられる。豊穣の音響世界、プラス演奏者たちの演奏意欲表現に存在感が上乗せさせられた。アンドレ・プレヴィンによる1967年頃録音、そのまろやかなピアノのタッチ、風合いは、表現する言葉がむなしく感じられる。極上の音楽は、LPレコード歴史上ピークを成すもの、それが、日本のレコード市場では流通していなかった。盤友人は、偶然入手できていたもので、それは今日、蘇ったものといえる。不思議なもので、時間が経過して、こちらのコンディションが巡り巡って、真価が発揮されたのだ。レコード、それ自体が宝物であっても、持主のポテンシャルがそれなりに高まることにより、輝きを放ったのである。  
 これは、レコードコレクターを自認する人なら、理解可能な話なのである。レコードそれ自体はただのヴィニールに過ぎなくて、オーディオ装置の手を通して音楽が再生されて、モーツァルトの愉悦を鑑賞することが可能となる。 さらに言うと、音盤を回した人が音楽情報を発信し、サイトアクセス・ウォッチャーが情報を受容して初めて、その世界は、イメージ・サイクルが成立して、モーツァルトの音楽が再生されたことになる。作曲者、演奏者、鑑賞再生者、情報受容者という時空世界の創出である。そのとき、演奏者による、ヴァイオリン両翼配置選択は、キーワードである。なぜなら、スピーカーは左右二台であり、その情報は第一と第二ヴァイオリンの音楽の展開が、左右二チャンネルによることにより、演奏は、相乗効果を発揮するからである。ヴァイオリン、アルト、チェロ、コントラバスの音響が、横一列に並ぶステレオ録音多数派の音楽とは、一線を画する。この違いは、最近での、音楽情報に敏感な人には、理解が可能な話であって、テレヴィ番組、題名のない音楽会で、高関健指揮する、東京シティーフィルハーモニックの演奏を視聴することができる。それは大変に、貴重な話であるのだ。この楽器配置、演奏者たちは、言葉で語る話ではなく、演奏選択肢の一つの話なのであって、ハードルは高く、今まで封印されていた世界、あえていうと、昭和の前期には普通であった配置でも、戦後には選択されなかった楽器配置で、二十一世紀に入って再興された音楽なのだ。 
 エイドリアン・ボールトは、アルトゥール・ニキッシュに師事した英国の指揮者で残されたディスクは、全てではなく、その多数が両翼配置による。そのことによるものかどうか、日本の市場には、なかなか、紹介されなかった不遇の大指揮者で、これから、再認識されても良い記録を残している。ロンドン交響楽団、冒頭から活躍する首席ホルンは、バリー・タックウェルだろうか? 

スピーカーの経年変化により、ヴォイスタッチのようなヒズミが起きるようになり、札幌音蔵社長KT氏に修理をお願いすることになった。彼にチェックを任せることにした。その間に、ローサー、LIBという同軸型の小振りなスピーカーを再生する段取りになった。  
 接続を終えて、音を出し、それまでのセッティングでのハム音など、まずいシステム上での問題が明らかになる。原因は外部シャーシアースの取り付け過ぎでループしていて、ハム音を引き込んでいたということが明らかになった。 墓穴を掘っていて、すぐ、修正が出来て同行してくれたSK技師の力量が発揮され、一同、笑顔になる。そこで、体験できたことは、いい音とは何か?というと、ディスクの情報を充分に再生して、よけいなマイナス現象を除去することから始まるのだなということに、思いが至った次第である。オイロダインを接続していて。気がつかなかったシステム上での問題が、とりあえず、解決されてスッキリすることができたのである。    
 LPレコードを再生して、音量が増すのではあらずして音圧が向上するというのは、スピーカーから放射される音波の振動感が、顔に感じられるか、そうでないかで判断できるのである。コンパクトディスクは、ノイズがない代わりに、音波放射されている振動感が皆無なので、空気感が無いといえる。そこのところ、アナログとディジタルの決定的な相違だ。ピアノという単一楽器の演奏を再生するとき、音がキレイなだけなのがCDで、空気感に満たされているのがLPというわけだ。空気感があると、録音された空間で演奏を間近にしている感覚になる。だから、一体感があって、長い時間、鑑賞を続けても気がつかないというか、録音情報に忠実度が向上すると、今まで気がつかなかったことが、ひょっとしたことで気付かされて感動を覚える。それまで、何回も、何十回と再生していたレコードから今まで気づかなかった音楽が聞こえたとき、その経験はこれからも長く記憶されることになる。それが、メンデルスゾーン作曲、ヴァイオリン協奏曲ホ短調冒頭の開始部分だ!弦楽器のサワサワした音楽の奥に、なんと、ティンパニーがポン、ポ、ポンと付点音符でミとシが下降してミにもどる音楽が、極め付きのPPピアニッスィモの音型で浮き出てきた。瞬間の音楽で、今までこのような印象に残ることは無かった。エフレム・クルツ指揮した、フィルハーモニア管弦楽団のとびっきりの名録音である。この手の印象をうけた感覚は、無かったのだ。ソリストに関係ないではないか?という疑問を口にされそうなのだが、否、その緊張感こそ、この音盤・ディスクのもっている音楽のポテンシャルを証明する。演奏全体の緊張感の表現が、開始部分の音楽になっているのであった。  
 クレジットによると、録音データは、1956年である。あのオーケストラで首席ホルン奏者は、デニス・ブレイン!演奏者たちの緊張感をいやがうえにも、高めている存在が、デニスの触媒のような働きで、やたら音量を誇るのではなくて、演奏のテンションを高めている。展開部おしまい独奏者によるカデンツァといって、単独で技量を発揮し終えてから、木管楽器、弦楽器へと移行して、ホルンがポーッと保持して演奏される一音が、この音盤のピークを成している。開始から八~九分経過しての頃合いで、一心に集中、注意する時間なのだ。独奏者ユーディー・メニューインの演奏も極上で、哀しいほどに美しい名盤である。

モーツァルト交響曲第35番ニ長調ハフナーと、第40番ト短調K550の2曲を井上道義は25歳で、1971年にザルツブルグ・モーツァルテウム管弦楽団を指揮、そしてレコーディングを果たしている。当時、グィド・カンテッリ・ミラノ国際指揮者コンクールグランプリを獲得して輝かしいキャリヤを打ち立てたばかりである。大変に立派な記録。オーケストラは、伝統ある本拠地のもので、彼にとってどれだけの経験になったか、はかりしれないものがある。彼自身、マーラー、ショスタコーヴィチの曲もさることながら、ハイドン、モーツァルトの音楽を第一に押している。すなわち、クラシックの大本を手中に収めたいと発言し、着々と実現している。大病を経験し、芸術をさらに深める境地を迎えている。生意気だった青年指揮者も、すでに70代、大輪の花咲かすことが期待されている。オーケストラが、モーツァルテウム音楽院管弦楽団だったこのレコード、充実した音楽になっていて、聴きごたえがある。弦楽器も第一、第二ヴァイオリン、アルト、チェロ、コントラバスと左右スピーカーの手前に展開する。交響曲第40番は、第一楽章がモルト・アレグロという音楽である。ここで、指揮者の設定するテンポは、選択を迫られることになる。というのは、モルト、充分にという音楽用語の解釈として二つの選択肢があるのである。速度四分音符120より急速にするか?緩やかにするものか?二種類の演奏に色分けされている。  
 次に、クラリネットを使用するのか、否か?の判断をどうするのか、二つの選択肢がある。作曲者第二版が、クラリネット採用の音楽である。ここでも、レコーディングした指揮者は二通りに分かれている。さらに、第一楽章終結部、転調を繰り返して、フルートの旋律が主旋律でメロディーライン通りに上行するのは、改定が加えられたもので、原譜は楽器の都合で上にあがらない音楽という二種類になる。井上道義は、緩やかなテンポで、クラリネットを採用し、フルート旋律の改定を加えては、いない。改定といっても音符一つだけれど、異なる印象を与えるものだ。

録音    

ag

   
1971

25

井上道義ザルツブルグ・モーツァルテウム緩、第二版、オリジナル
1948 62 フルトヴェングラー 
ウィーン・フィル 急速、原典版、オリジナル
1950   
83トスカニーニNBC交響楽団急速、第二版、オリジナル両翼
1956 71 クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団 緩、第二版、オリジナル両翼
195983ワルターコロンビア交響楽団 緩、第二版、オリジナル 
1959 45フリッチャイウィーン交響楽団 緩、第二版、上行型
1961 67ベーム ベルリン・フィル中庸、原典版、オリジナル
196277 クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団緩、第二版.  オリジナル両翼
1976 82 ベームウィーン・フィル中庸、原典版、 オリジナル
1980
66クーベリックバイエルン放送交響楽団緩、第二版、上行型、 両翼
198148アバドロンドン交響楽団緩、原典版、上行型


音符がわずか一つでも、オリジナルか?改定か?という風に印象は異なり、テンポ一つでも時代をあらわし、ヴァイオリン両翼配置などはその指揮者の音楽観を表現していて、興味深いものがある

1883年9月作曲完成、翌年、ライプツィッヒにて、アルトゥール・ニキッシュ初演指揮、その後、ヘルマン・レヴィ指揮ミュンヘンにて演奏、バイエルン国王ルートヴィヒ2世に献呈されている。ハース版とは、ニキッシュ、レヴィらが楽譜に加筆、それを削除したもので、ノヴァーク版はそうした加筆を作曲者の意図にも添ったものであるとの立場から、ティンパニーや、トライアングル、さらにシンバルなど打楽器の使用を加えた版による。作品は第二楽章に通常2管編成の上、ワーグナー・チューバが4本、バス・チューバ1本が加えられた大編成管弦楽。 
  ハンス・ロスバウト1895・7/22~1962・12/29、P・ブーレーズの作品、ル・マルトー・サン・メートル初演指揮者としても知られる。同時代音楽紹介者としても有名で、南西ドイツ放送管弦楽団バーデンバーデンを指揮したブルックナー、交響曲第七番ホ長調原典版がステレオで録音されている。それより以後、1964年録音のカール・シューリヒト指揮ハーグ・フィルハーモニー王立管弦楽団のものと同じく、ヴァイオリン両翼配置による演奏で後者のコントラバス上手配置に対し、ロスバウトは下手配置による。    
 曲の冒頭、チェロの歌が左手側から流れ出して、右手側から第二ヴァイオリンがトレモロを演奏している希少な音源である。第三楽章、舞台下手で第一ヴァイオリンの主旋律に対し上手側で第二ヴァイオリンが合いの手の演奏を展開しているのが確認される。ステレオ録音の主流は、ヴァイオリンを舞台上で指揮者の左手側に畳んでいるが、そのことにより、演奏上の合奏リスク、並びに指揮者の責任は回避されて、現代では多数派を確立、ただし両翼配置は、オットー・クレンペラーを筆頭に継承されていて、コンパクト・ディスクでは、パーヴォ・ヤールヴィが2006年頃からブルックナー交響曲、ノヴァーク版によりフランクフルト放送交響楽団で録音活動を開始している。   この種の録音で聞こえ方の問題、特に舞台両袖に展開するヴァイオリンの音楽は、対話、掛け合いが重要な効果であろう。コントラバス、チェロの音響が主旋律の支えになっている音楽は、男性的であるのが特色、リズムの推進力が截然としている。  
 それが何故、二十世紀後半、タブーとれていたのか?というと、アンサンブルのハードルが高いということに尽きる。ところが、最近はというか、1984年のジェイムズ・レヴァイン、モーツァルト交響曲全集録音プロジェクトを端緒として、実力派指揮者たちが主導して、Vn両翼配置は録音され出し注目を集め始められている。そんな中で、ロスバウト指揮の録音盤など、ステレオ初期の録音として価値は高い。オーケストラ合奏能力の向上とあいまって、ヴァイオリンを畳む主流派録音の限界、名演奏は出尽くした感があり、新しいオーケストラ音楽として注目されているのが現在であろう。       
 ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、今年11月札幌に再登場する予定もあり、楽しみでもある。ダニエル・バレンボイム、クリスティアン・ティーレマンなどの指揮者たちによる活動も、目が離せない。時代の新しい潮流として、二十一世紀の展開がすこぶる興味深いものがある。楽器配置問題は、指揮者の主導という側面から鑑賞者の受容、聴き方の方向性として、より高い多様性が求められているといえるのであろう。

 

ブルックナーの交響曲というと、重厚で長大、深遠といった形容詞が思い浮かび、好き嫌いが分かれるところであろう。実際、日本で或る高名評論家などは、第二楽章でウトウトして気が付いたら、まだ同じ音楽が繰り返されていたとカミングアウトして、苦笑を誘っていて失笑を買っていたわけではないが、そこのところ、あいまいではあった。 
 フルトヴェングラーは、
1942SP録音として、第二楽章だけ、正規録音していて、米ディスココープで入手可能である。それは一種、至高の名演である。どうしてかというと、まず、ノイズクラッチといって78回転ディスクに特有なノイズ成分を含んでいるということ、ということは、聴覚バランスとして、耳にすることはあるにしても、気にならないくらい音楽信号を充実させると、問題にはならないで、鑑賞すると感動を覚えるということだ。そのためには、オーディオの長い、長いプロセスを経験しなければ到達できない、喜びというものである。容易には獲得できない境地というもので、アナログにこだわりがある人にして、理解可能な話ではあるだろう。唯一至高の境地というのは、そういうわずらわしさを経験して初めて、知るものだ。音楽情報を知るというのは、SPLPCDPCなどと様々なのだけれども、アナログの世界は、SPLPまでであって、CD、ましてやPCを聴いて千曲万来余話その文章を生み出すことできるものではない。感動と、知るという行為は、似て非なるものがある。最近の傾向として、テレビの情報でクイズ形式など、知る知らないの結果判断を競うばかり、食事番組では、レポーターの食レポといって、知らしめるだけの情報、感動とはほど遠い世界である。感動とは、ある種の、宗教的境地というか、感動とは祈る行為に似ている。考える、思う、想うなど、それぞれ深い違いがある。その行為を深めることが、感動の起因するところとなる。  
 両翼配置というワード、特に気を付けなければ誤解の元となる。知ることが目的ではなく、感動を深めなければ、言葉の遊びに等しいものがある。だからあのフルトヴェングラーの音盤を再生して得られる高みは、実は両翼配置の境地であるという指摘から、その解析を必要とする。音源はモノーラル音響であって左右の感覚はなくコントラバスとヴァイオリン演奏という音楽上の、特徴の把握にある。すなわち、揺らぎのない音響の上に、推進力という力感のそなわった音楽のもたらす演奏の力といったら良いだろうか?これは神格化された指揮者のなせる業であって、凡百の指揮者ができる音楽ではないだろう。至高の音楽の所以である。この音源を経験できるサイトアクセス、ウオッチャーは数少ないであろう。それを考えると、罪な話ではあるけれど、いつの日かその経験をしてもらいたい、登山の話のようなものである。        
 左右から音が聞こえるのではないのに、なぜ、両翼配置なのか?というと
1945年というドイツ敗戦を境にして、フルトヴェングラーの音楽、特にオーケストラ配置に変更を加えているという、明らかな歴史的事実にある。このことを指摘しておかなければ、成り立たない話なのである。オーケストラの写真を、色々、眺めていて導き出された結論である。それ以前、指揮者達が様々な配置をした世界ではあった。たとえば、フリッツ・ブッシュ指揮するドレスデン国立歌劇場管弦楽団などの演奏風景は、向かって左側にファゴット、その右側にクラリネットが座っていて、その上にヴァイオリン両翼配置なのである。

オーケストラ映像には、無言で語りの世界がある。

 

 ヘルベルト・フォン・カラヤン1908年4月5日、ザルツブルグ日曜日、夜11時に誕生。父親のエルンストは太陽と土星が白羊宮にあり、星座は険しいながらも成功への道を予言していた。ローマ・カトリック教会の儀式に従い、ヘリベルトという名前で洗礼を受けさせていたと伝えられている。フォンといっても、貴族出身ではなく、ギリシャ系カラヤヌスのというほどの意味だから、注意が必要である。三歳でピアノを習い、ワーグナー作曲ニュルンベルクの名歌手前奏曲の冒頭部分を体験させたといわれている。絶対音感を発揮していて、音楽家への努力をするようになったとある。    22時頃、東の夜空を眺めるとおおぐま座から、アークトゥールスという輝き放つ星、その先さらに現在は、木星、その下にスピカという春の大曲線が見られる。振り返ると西の空には、プロキオン、べテルギウスというオリオン座の頭、その下方にシリウスという青白色星が一際目につく。冬の大三角形。プトレマイオス・クラウディオス、いわゆる、二世紀の天文学者、トレミーの所以によりギリシャ神話で星座は語り伝えられている。公式には、八十八の星座から、星図は成り立っているという。1808年、オリオン座のことをあるドイツの学者などは、ナポレオンの名を冠しようとしたとか伝えられている。1922年、国際天文学会により星座名称の確定は図られたそうで夜空には、ギリシャ神話の世界がちりばめられていることになる。    
 1936年4月、1週間で作曲、9日間でオーケストレーションを完成された交響的物語、ベーチャと狼、よく知られているのは、ピーターと狼と呼ばれる作品67。セルゲイ・セルゲエヴィチ・プロコフィエフは1891年4月23日旧暦4月11日木曜日午後5時、ウクライナ南部、ソンツォフカ村に生まれている。伝記によると父はモスクワからやってきたとあり、母マリアはペテルブルグ出身。セリョージャ、プロコフィエフの愛称、は母の弾くベートーヴェンやショパンのワルツをよく記憶していたという。1900年、彼は最初のオペラ、巨人ヴェリカンを作曲し家庭内で演奏されている。子供のための、ピーターと狼は自作の物語、最初のタイトルは、ベーチャはどう狼を出しぬいたか?というもので、現役指揮者、井上道義は、とある演奏会で狼は何を意味するか?と聴衆に問いかけていた。彼は一言、それは当時の社会で、自由!と語っていた。盤友人にとって、それは明快、さもありなんというもの、ただし狩人たちに射撃されて退治された狼のお腹には、アヒルが生きていたというおちがある。弦楽部と一管編成とホルン三本、弦楽四重奏でベーチャを表し、鳥はフルート、アヒルはオーボエ、猫はクラリネットで低音域のスタッカート、おじいさんはファゴット、狼は三本のホルンで演奏される。
 緑の牧場のベーチャ、猫が小鳥を狙い失敗、森から狼が出てきて、アヒルを呑む、ベーチャは小鳥の助けをかりて狼と闘う、かけつけた狩人たちとベーチャと小鳥と猫が、アヒルを呑んだ狼を動物園に連れていく行進、という展開になっている。     
 カラヤンは1956年12月に ロンドン、キングズウエイホール、フィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音している。彼らのコラボレーションとして、ホルン奏者のビッグネイム、デニス・ブレインとの最後のセッション録音。特に彼らは、愛車シトロエンとフェラーリを乗りかわす仲だったというエピソードがある。

 セレナーデというのは、もともと夜曲であったので、たとえば、第五曲ロマンツェ、アダージォという音楽がこの夜ではピークであったといえる。女性オーボエ奏者が主旋律を歌いあげ、アンサンブルとして他の楽器はわき役に回る。周りは少し引き気味なのが丁度よいバランスということだった。    
 つまり、後列に舞台下手から、コントラバス一人、ホルン四人という布陣で前列には、指揮者左手側にオーボエ二人、ファゴット二人、バセットホルン二人、舞台上手にクラリネット二人というのが、ふきのとうホールで展開されたコンサート風景であった。   
 ここで、コントラバス一人の舞台下手配置というのは、実に効果的であったといえる。コントラバス一人で、全体を支えたり、第一拍で主導する演奏は、見事だった。彼の音楽に遊び、スウィングが加わると、天下無敵といえるだろう。 
 第三曲、アダージォ、ここではクラリネットとバセットホルンが二人ずつという四重奏が余韻嫋々とアンサンブルを披露する。ここで盤友人、少し気になったのは、ステージ舞台上手だけの演奏であったことである。すなわち、ファゴット二人は、オーボエの支え、後列に配置される方が正解ではなかったか?ということで、前列六人オーボエとクラリネット、後列は七人でというバランスがベストではなかったか?ということ。作曲者のイメージは、前後左右というパレットが、前提としているであろう。これは、オーケストラすなわち、舞台ということの意味である。    
 当夜、ふきのとうホールは、収容二百人ほど、満席で終演後、万雷の拍手は全員を包んで一体感が感じられて快いこと、極上であった。そこで若い指揮者は、演奏者全員と握手を交わしていたのは、微笑ましいシーンであったといえる。  
 コンサートの前には、五階で一寸したサービスという、おもてなしがあり六花亭主催ならではの実に旨い気配りだった。  
 この曲の名盤に、ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮したウィーン・フィルアンサンブルによるものがある。時としてその評論に、指揮者は何もしていないというものがある。ところが、よく考えると、指揮者は音を出していない、すなわち、演奏しているのではなくて、指揮をしているのだから、一体、何をしているのか?というわけである。演奏の邪魔をしてはいけないのは、無論だが、何もしてないわけではない。テンポの設定、音量のバランス、そして表情、アンサンブルの全体を、作曲者に代わって指示を出すのがディリゲントというものだろう。何よりも、舞台楽器配置の決定、結論を与えるのは指揮者の責任である。そこには、音楽性、経験、音楽観、歴史認識などなどがある。そこの聴衆の中には、すでに鬼籍に入っている作曲家、その気配を感じさせることができたとしたらその指揮者は合格である。聴衆にはそのことを、感じる人、感じない人様々であるのだが、それを指摘するのは音楽評論家の仕事である。ローベルト・シューマンは、作曲家、演奏家、評論家とすべて体現した音楽家の一人。彼は、ロマンスという音楽を愛した作曲家でオーボエは、愛の音楽に最適の楽器、ファゴットはそれを支える楽器であって、レデイファーストの文化では、目立つのは控えめが良いというものである。それは、楽器の配置でも、いえることではあるまいか?


 人は、音を楽しむと云って音楽を説明することは誤りである。音の芸術ではなく、音による芸術であるからそれは、音響の芸術ではなくて、時間の芸術、物音ではなく、楽音に限ることにより、時間を楽しむというのが正しいだろう。     
 愉しむのは音ではなく、時間なのであって、そう過ごすことは愉しい、すなわち、楽興の時こそ本来、音楽の姿なのである。だから、ものではなく、時間こそ求める対象なのだからそのように感じる感性が、その人の音楽性なのであって、心の底から感動する瞬間を求めて、音楽体験は形作られる。オーディオが目的ではなくて、手段なのだから果てしがない趣味の世界だというわけである。よく、音の入口と出口という言い方があるが、プレーヤー、スピーカーだけでは成り立たず、胴体としてのアンプ、さらにはそれらをつなぐ付属品アクセサリーを一体としてシステムは成り立つのである。オーディオは、その人となりであり、人生の味わいがして不思議である。    
 ブラームスは、交響曲第一番を完成するのに、20年以上の時間をかけたのは確かにそうなのであり、彼はベートーヴェンのハ短調作品67を越してその音楽を完成させているというのは、興味深い事実だろう。真実は音楽体験のその時に思われるものであり、説明するものでも、あるまい。作曲するとは、音により時間の秩序を与えることである、とは或る高名な作曲家の、翻訳された言葉である。ドイツ三大Bとは、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスだ。作品68の音楽では、運命の動機が聞こえることや、コントラバスによる音楽はバッハの受難曲での体験を想起させて、芸術に深い性格を与える。   
 1952年と1957年には、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によって、ブラームス作曲、交響曲第一番の重要なLPレコードが、記録されている。66歳のフルトヴェングラー、43歳のクーベリック、55歳のクリップスらが、それぞれの年齢で指揮台に立っている。指揮者の年代による相違が感じられて、面白い。中でも、ヨーゼフ・クリップス指揮によるデッカ、LXT番号によるレコードを鑑賞することが出来て、ひとしお感慨深いものがあった。    
 音に味わい深いものがあって、一際、コントラバスの旋律線による深い音楽などは印象的である。当時の演奏スタイルとして、客観的、端正で古典的なたたずまいは、余人をもって代えがたい孤高の記録である。第二楽章アンダンテ歩くような速さで、ソステヌート音をたもってという速度記号は、ズバリ簡潔な表現で作曲者の真意は、容易に判断可能である。アンダンテとは、しっかりした足取りを意味していて、そのテンポ感は演奏の出来の生命線だろう。オーボエやクラリネットの独奏に続いて登場するコンサートマスターのソロは、ホルンの助奏を得て、この音楽のピークを築き上げる。クリップス盤では、その抑制されたヴィブラート、控えめな表情、たおやかな演奏ぶりからして、ワルター・バリリの名前が、クレジットされていないものの、強く印象づけられる。    
 この音楽の由緒ある、作曲者自身指揮したオーケストラによる演奏は1876年12月にさかのぼる。このレコード、ウィーン出身指揮者クリップスのゆるぎない音楽に、改めて生粋ロマン派音楽の精華を見る思いがして、オーディオ人生とは何かを考えさせられた。


 三月二十八日の新月夜を越して、モノーラル針による再生を愉しんでいる。極め付きは、フルーティスト、マルセル・モイーズ。ヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュ。ピアニスト、ルドルフ・ゼルキンという独奏者たち、ええっ!ピ、ピアニスト!!通奏低音は、常識によるとハープシコード、イタリア語ではチェンバロというものであるのに、ここで、1935年10月録音のSP録音では、ピアノで演奏されている。当時、というか二十世紀初頭では、バッハの作品においてチェンバロのパートをパイプオルガンや、ピアノで演奏されることは、そのようであったらしい。作曲家マーラーは、管弦楽組曲の通奏低音をパイプオルガンで担当させて編曲していたものである。だから、弦楽合奏の音響は、反動として現代は、ピリオド時代楽器使用といって、かなり、室内楽的に小規模思考に向かっている。今年の一月、モダン楽器使用した指揮者マックス・ポンマーは、コントラバス一丁による弦楽アンサンブルで大ホール演奏録音を挙行している。  
 SP録音でもLP復刻モノーラル録音は、容易に鑑賞することが可能である。    
 ここでの主役は、独奏者たちなのは無論だが、中でも、マルセル・モイーズのフルートによる音楽は群を抜いている。フルートの神様、神ゴッドとは、全能の神、創造主、三位一体の神、姿は三様でも一体としての存在を指しているのだが、盤友人にとって神とは、祖先神の感覚で父なる神、そして母体を通して連なる祖先が神様に思われるのだが、フルートの神様として、マルセル・モイーズはその存在である。彼は、1889年5月17日仏サン・タムール生1984年11月1日米バ―モント州ブラトルボロ没。1903年パリ音楽院に入学、ゴーベールにフルートを習っている。1906年に卒業、その頃からパリ音楽院管弦楽団首席を務めていたといわれている。1932年から1949年にかけて、パリ音楽院主任教授を務めている。その高弟にランパル、ニコレ、ゴールウエイ・・・名手たちがいる。1939年、レジオン・ドヌール勲章を受章している。1973、1977年来日して、以前、吉田雅夫は独学ののち、モイーズに4年ほど師事しているという。吉田氏の本によると、楽器の材質と、ピッチの関係が詳述されている。わけても、興味深い指摘は、アンドレ・ジョネ先生によるレッスンで、作曲家タファネルの、アンダンテ・パストラール田園曲で、嬰シャープ・ラと、変フラット・シの説明する部分がある。平均律での全音を、九個にわけて、コンマという概念を導入している。難しいことを簡単に言うと、完全五度を五回繰り返して上昇させて十二音、Cを五度積み重ねて十二回のとき、Hisは、Cより高くなるという・・・バッハ後期の平均律、バッハ前期までの中全音律ミーントーン、さらに純正律=自然和声的音律  
 純正調において、嬰音シャープは、一音上の変音フラットより高めに吹奏するのが、その演奏手法である。わかりにくいが、ト長調でファの嬰音シャープは、平均律の黒鍵ファより高めに演奏すると、終止感が伴うということである。平均律はそこのところ表現不可能な世界である。  
 モイーズの演奏は、聴くとすぐに彼の演奏だと知れるくらい、入魂の吹奏であり、フレーズが、普通の人と倍くらいの違いが感じられる。コンマが読点だとすると、テンや、句点マルの価値が表現されている。すなわち、モイーズの演奏は、文章を格調高く演奏されるごとく、その集中力、精神力のポテンシャルは、神業というほか、ない!!! 


 レコードの価格は、一体、何が正しいだろうか?言えることは、昭和四十年代で二千円であったということである。そのうち、千円の廉価盤というものが普及していった。現在は、中古レコードとしては、百円から五百円と、購入しやすい。ところがである、クリケットレコードが設定している輸入レコードは、二千円から四千八百円のレコード、一万円や二万円、はたまた、九万円などなど、さまざまであり、目が回り、面食らうものであろう。つまり、定価などという感覚は、一切ないのが現実である。    そこで、レコードというものが、どのようにして、製造されているか、認識している必要がある。初版盤というもの、オリジナルといわれているものは、最初期にプレス製造されたレコードを指していて、入手が難しいもの、だから、高額であり、といっても、三千八百円とか入手しやすい設定のものもあるが、それなりに設定されていてマチマチである。たとえば、マルセル・メイエルという女流ピアニストのものはオリジナルレコードが大半であって、モーツァルト、ピアノ協奏曲第二十番など九万円の価格でなければ、購入できない。盤面のコンディションにもよるが、そこは、仕入れ値と店主の判断により、決定されていて、それなりの価値判断によっているといえるだろう。   
 国内盤というものは、五十年前は二千円というのが基準となっているが、元はというと、輸入盤がオリジナルであり、マスターテープからプレスされたものとか、それをダビングされたテープからプレスされたものが大半であって、音質的にも、高音域がノイズ対策としてカットされている実態が、国内盤には大多数であり定価の感覚が生きているものである。盤友人は、手を加えていない輸入盤が、購入の大多数を占めていてそのレコードといっても、初期盤から第二版、普及されているサードプレスなど色々な種類のものが、流通していて、それなりに購入する判断が必要とされている。クリケットレコードで用意されている最近プレスされた新発売レコードこそ、定価が設定されているけれど、それとても、以前の二千円という固定感覚にとらわれては、判断が難しい価格が設定されているといえる。購入する際には、いずれにしろ、店主との会話から購入する判断を下すのが一般的といえるだろう。購入する全てのレコードを、オリジナルに限る人もいれば、五百円程度のものを多数購入する人もいるだろう。いずれにしろ、それなりに価値判断必要なのが、趣味の世界といえる。  
 たくさんのレコードの中から、昔は、ベートーヴェンのソナタを集中的に聴いていたものを、シューベルトのソナタ、即興曲や、リストの超絶技巧練習曲集という具合に鑑賞する範囲を広げて最近は、シューマンの世界にまで、広げている。彼の音楽は、古典派からロマン派の世界へと展開を見せていて、それは、個人の感情を音楽に反映したものである。古典派の世界は、形式が土台であって、そこから展開しているのだが、幻想小曲集など、第三曲、何故にというタイトルが示す通り、作曲者の内面世界が、そのまま、ピアノ曲で創作されている。もはや作曲する対象となる音楽はソナタや舞曲集ではなく、小品からなる曲集の構成であり、形式を超えた抒情世界であるのは、ロマン派音楽の象徴である。イーヴ・ナット、1950年代のアンドレ・シャルラン技師録音による音盤は、その魅力を充分に伝えて、不足はない。 


  いい音とはなにか?というのは、これまで、発信してきているように、永遠のテーマといえる。それは、人それぞれによって、答え方があり、時代によっても異なるだろう。 
 音の数、ここでは演奏する楽器の数オトカズは、一つに絞って考えてみるに、ヨハン・セヴァスティアン・バッハ作曲、作品番号1003というソロ・ヴァイオリン・ソナタ第二番イ短調を再生するとき、楽器の音響を興味深く、鑑賞することが出来る。  
 ナタン・ミルシュタイン1903.12/31~1992.12/21、ウクライナのオデッサに生まれ、1929年アメリカデビューを果たし、ロンドンで逝去している彼は、神童といわれ活躍していた。レオポルド・アウアーにも師事していて、控えめのヴィヴラートで、そのレコーディングは、アメリカやヨーロッパで広がりを見せている。  
 彼の演奏のスタイルは、ウィーン・フィルの元コンサートマスター、ライナー・キュッヘルの証言によると、絶えず運指法を工夫していて一定していることはなかったという。それは何を意味するかというと、音響やテクニックの両面から、いつもベストを探る態度であったという彼のスタイルであろう。
 バッハの無伴奏ソナタ、パルティータ全曲を1950年代モノーラル録音、そして、1970年代ステレオ録音でも記録している。それぞれ、彼の壮年期、円熟期を記録していて両者とも価値が高い。すなわち、ステレオだから良くて、モノーラルだから音が悪いという価値判断は、陥りやすいものではあるのだが、盤友人としては、オーディオの追求をしていて、モノーラルは音が悪いという言葉に、嫌悪感を覚える一人ではあるもので、モノーラルレコード再生には努力が必要なことは、確かではあるがその過程を経たとき、モノーラル音響は、ユニヴァーサルであって、楽器の魅力を充分に伝えてくれて、嬉しいこと限りない。国内プレスのLPレコードであっても、楽しむことは可能だ。逆に云うとすれば、これをできないことは、オーディオ追求のレヴェルが、まだ至らないことを意味しているのだろう。 
 ヴァイオリンという楽器は、アルト、チェロ、コントラバスなどとは違って、表板と裏板の振動という音響の魔法が可能である。これは、音域によってスイッチが働き、表板から裏板へという具合に音響の発生が移って、それがひとつの魅力になっている。響きの方向性が、モノーラル録音の場合、分かりやすいのだ。 
 ミルシュタインは、それを印象的に演奏できる偉大な奏者であり、音楽家といえる。バッハもその喜びを音楽で表現している。バッハの作曲を、ミルシュタインはそれを演奏して我々に伝えてくれる。ソナタは4曲からなり、パルティータは、7、8曲の舞曲から構成されている。     
 最近、15000番台の精密フィルム紙やすりを購入して、電源コードのコンセント、ピンプラグの電気信号が通過するプラスの芯棒を、磨いた。そのことにより、倍音成分の音圧が高まり、ヴァイオリン再生の楽しみが、グレードアップした。性能の向上である。簡単にモノーラル録音の再生というけれど、手を加えることによって、ステレオ録音再生以上の喜びを体験できるのは、オーディオ冥利に尽きるといえるのだろう。


 以前、太陽が東から昇り西に沈む様子を、天動説で認識していたのは、よく知られている。 
 ポーランド人聖職者で天文学者でもあったコペルニクス1473~1543は、イタリアに遊学して その後に、回っているのは天ではなく、地球自体であるという地動説を唱えた。  
 一日のうちで昼間に思考している限り、地球が回っているという自覚は、ほぼ、無理というもの、ところが、夜中に星空を眺めていて、星座が天空を移動していく様子を観察していると、北極星ポールスターを中心軸として右手側から左手側方向に展開するのが自覚できる。そこで、冬の空から、春の空へと移行するに従っていく模様など、回っているのは、地球自体ではあるまいか?というふうに思えてくる。春分の日、三月二十日前後、夜十時ころ空を仰いでいると、東の空、中空にアークトゥールスが目立つし、南側には、木星、そしてスピカが見える。北の空に春の大曲線、北斗七星の柄の部分にたどりつく。西の空には、プロキオン、ベテルギウス、そしてシリウスと、冬の大三角形が印象的だ。というふうに、地球の自転と太陽の周りの公転というのが、実感されて楽しい。  
 長々と、星の話を引用したのには、訳がある。音楽の演奏形態の認識も、現在の様子は、ステレオ録音の普及にしたがって、移り変わりがあったという認識にたどり着くには、時間がかかるというものである。一月にこのサイトで、弦楽四重奏のステレオ録音で、ヴァイオリン両翼配置は無いものか?という発信をして、盤友人は、そのレコードを入手することが出来たのである。
 イギリス・マイナーレーベルSAGAのLPステレオ録音、ハイドンのジョーク、鳥の二曲。ジャケット写真が演奏風景ではないのは、そうなのだが、演奏に注意すると、左側スピーカーから、チェロと、第一ヴァイオリンが、そして右側から、アルトと第二ヴァイオリンが聞こえてくる。  
 ジョークを聴いていると、第一と第二ヴァイオリンの関係がユニーク独創的で、フランツ・ヨゼフ・ハイドンのエスプリが、充分効いている。そして、なにより、第四楽章の終末が、終わるようでなかなか終わらないという、パパ・ハイドンのユーモアがこめられていて、ニヤニヤしている作曲者の機知が表現されていて、秀逸である。  
 このレコードは、きわめて、貴重である。すなわち、現代がヴァイオリン両翼配置をタブーとしている時代なのであり、大多数の音楽家は、ヴァイオリンを畳んで、両翼配置の展開を忌避しているからである。古典派の作曲家たちは、その前提として、この配置がイメージされて、作曲されていたのであって、現代の配置は、それは、不幸なのが現実であるといえよう。 
 録音技師たちにとって、左側にチェロの音響は、カブるといって、避けている配置、すなわち、左から右へと一列で録音する意思が働いている。これは、作曲者のイメージと齟齬をきたしているのだ。このステレオ録音を聴くとそのことが、よく理解することが出来る。現代では、東京で、古典四重奏団が実践している。盤友人としては、彼らの行き方こそ、待望しているというものだ。  
 時代という大前提に気がつくということは、天動説から地動説へと展開する認識の努力に似ているといえるだろう。


  作曲するとき小節数を数えるものではない。  
  音楽は、間が大事である。    
 五小節のうちに二つのフェルマータがあるとき、二つ目の2小節連結したものの方が、一小節分だけ長い。    
 オーボエ独奏部分のカデンツァは、レチタティーボ叙唱部のように表現しただけである。  
 自記筆楽譜には、全休止符が書き残されている。これらは現在の常識である。
 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮する1926年頃SP録音の登場以来389小節全休止は、その存在が定着して、大多数はその楽譜に従って、一小節分の全休止符がものを言っているというか、そのことにより、ベートーヴェンは偉大な作曲家であるといいながら、その業績の根拠が語られることは、一切ない。というか、彼の楽譜に音楽で異質の一小節が加えられていて、何食わぬ顔、大多数の人々は、そうだそうだとばかり演奏にブレーキをかけて、緊張感を高めるテンポに終始している。音楽の話をするとき、前提として、アレグロ快速にというものを、超スピードでばかり、競って演奏する世の中である。圧力をばかりかけて、快いテンポ、よく響く弦楽器の弓遣いを試みようとは、する余裕がない、判で押したように、何も考えない運命に、指揮者たちは追い込められている。可哀想なのは、ベートーヴェンの神髄に永遠に迫れない職業音楽家たちの集団ということになる。お客様たちも、お金を払っているのだから、無条件に拍手盛大、音楽体験をしているだけ、それが、真実かどうかなどとは、疑う余地はない。ただ、拍手しているだけで、ブウイングするなどとは、一切、考えないということは、かわいそうなのは、実は、聴衆たちなのである。  
 アルトゥール・ニキッシュ指揮という1913年SP録音の音楽は、否定されたままというか、無視されている、すなわち、音楽評論家は一切、この音楽を指摘するのは盤友人以外、誰一人としてこのことを口にしていない。だからインターネットの力が問われている。
 予想できるのは、NHK交響楽団の楽譜倉庫に眠っていることであろう、山田耕筰指揮した、演奏総譜では、かの全休止はないのである。   
  平成28年10月22日FМ放送でオンエアされていながら誰もかの展開部のあとの全休止が無かった演奏でその指摘はなされていないというこの現実、音楽に対してスルーしている現実が、そのままである。501小節楽譜は500小節完成完全な音楽である、という事実を認識できるかは、楽譜を読むことができる人にしかできない事実ではあるが、かの389小節目に全休止があるかどうか位は聴いて誰にでも判断可能である。さて、それが、B氏の音楽かどうかは、断定できるのか?それはゆっくりした演奏をすると、判断可能なことであろう。提案として、ヴァイオリン両翼配置で足取りのしっかりしたテンポで演奏するとき、あの音楽、全休止は不自然であることは、判断できると予想できる。プロ指揮者ならばこのくらいは実験できるであろう。音楽とはそういうものなのであり、誰もそれを実践していないだけである。LPステレオ録音では、パウル・クレツキとジョルジュ・ジョルジェスク指揮するレコードの合わせ技、実演できるのは生の音楽だけなのである。


 管弦楽とコーラスによる音楽をレコードで再生して、コーラスの声部配置に注意されたことは、おありだろうか?いつも聴くときは、ああ混声合唱団がうたっているなという程度の認識であると思われる。だいたいは、女声コーラスが指揮者の左側、右手側に男声がひろがる、そんな配置がイメージされて、そのように聞こえてなんの問題意識もないことだろう。     盤友人は、歌う側から聴く側に推移して、20年くらい経過しているのだが、そこでさしあたって、その声部配置が楽しいのだろうか?という疑問に向き合っている。歌っているときは、ただ歌っているだけで、何も考えることなく指揮者に従ってコーラスに参加していただけである。ベートーヴェンの第九交響曲のステージを30回は経験しているのだが、たいていは女声舞台下手、男声上手配置であったのだが、カール・ミュンヒンガー指揮するバッハ、ロ短調ミサ曲の演奏配置は、女声が前列で、男声は後ろの列というもので向かって右手側がテノール、左手側がベースという配置だ。女声は右手側がアルト、そして左側がソプラノ配置。バッハのポリフォニー多声部音楽では、各パートの出だしが独立しているとき、向かって右手側からテノール、左手側がベースとか右手にアルトそして、指揮者の左側からソプラノが聞こえるなどしたとき、その複雑な掛け合いが、作曲者のイメージによって、作曲されていることが伝わってきて、ヨーロッパ音楽の面白さが、手に取るように認識させられる。ひるがえって、現在、レコードで聴くことのできる合唱の配置はというと、判で押したように、女声ステージ左手側、男声右手側という大多数のソースに、盤友人は懐疑的というわけだ。そのように、配置される指揮者が大多数という中で、現代において、ミュンヒンガーのLPレコードの価値は高い。   
 少数派だから、価値があるのではなくて、それが聴いて楽しいし、価値があるからであって、多数派か?少数派か?というわけはない。すなわち混声コーラスの理想的な配置は、男声の音響の上に、女声をのせるという工夫、なにも、レディーファーストということで、男声を下げているのではないのだ。音響的必然性を考えたとき、理想的とすべき配置は、左手側が高音域、左手側低音域という固定観念を乗り越えて、その混声ミックストヴォイス、ソプラノの支えとしてベース、アルトの奥にテノールを配置するという和音ハーモニーの外声部と内声部を左右配置の原理とした方が、聴いていて、そして歌う側も楽しいことであろうと考えている。  
 定位ローカリゼイションの向上を実現して、獲得して初めて到達した境地、共感する人が、一人でも増えてほしいという願いから、サイト発信しているのだが、理解されているであろうかといつも、悩んでいる。ミュンヒンガー指揮のディスクを再生して、スッキリ、悩みの雲も晴れていくのが分かる。なにも強制しているのではなく、そのように音楽を愉しんでくれれば、理解できるであろうと、思っている。  
 砂金というもの、砂の中に、金の粒は希少であって、だから、価値は高いし、その発見の喜びは、大きい。混声合唱団に関係している人が、このサイトアクセスの方の中にいらっしゃっていたならば是非、声部配置の試みをされること、希望する。いつまでも、同じという保守的な態度は、よくわかる話ではあるのだけれど、手のひらを反すことは、決して無駄な努力ではない、面白い話ではある。


 これは入手することのできる唯一、管弦楽がヴァイオリン両翼配置による同曲LPである。独奏者アニー・フィッシャー1914・4/5ブダペスト生まれ~1995・4/10同地没は、一貫して名器ベーゼンドルファーを愛用している。1959年頃、指揮者エートリアン・ボールトとはEМIでLPレコードを残していた。  
 古典的でということは、格調高くなおかつ強弱の対比が克明という印象を受ける。テンポの緩急も柔軟であり、健康的なモーツァルト演奏に仕上がっている。彼女の特徴は、ハンガリー系の音楽家に共通する、ということは、フランツ・リスト音楽アカデミー出身だからか、コントラスト隈取の明確な表現が、徹底している。楽器のタッチにしても、確実で、明快。彼女は愛煙家として、いくつかの写真を残しているが、そういえば、ヴァイオリニストのヨハンナ・マルツィも同じくであった。現代では、煙たがられているというと、いやな存在のことを意味するのだけれど、彼女たちは、憎めない音楽家である。札幌音蔵社長KT氏もなかなか、手放せなくて、盤友人にはその経験はない。時代は変わるのだから、自分を変える努力も必要ということか。でも、北の匠に対しては人間関係から言って、煙草をやめなさいとは、おこがましくて、いえないのだが、逆に長生きを願うならば、そこは鬼になり、おやめなさいではなく、やめたほうがいいかなあ位、ちくり、しておこう。  
 2016年音楽シーンで強烈で、印象に残ったものは、内田光子独奏指揮による、マーラー室内管弦楽団による、モーツァルトのコンサートであった。彼女は、ヴァイオリン両翼配置のオーケストラを前にして、華麗な演奏を展開していたのだった。それは、ステージ上で、楽器同士の対話が際立っていたのだった。それは、モーツァルトの音楽の必要十分条件であったといえる。  
 1960年代の音楽シーンは、両翼配置否定の上で成立していたといえるのだが、時代は、その回帰現象の風が吹いているのだ。アバド指揮した室内管弦楽団はその路線を進行している、ということは、舞台上での対話重視の音楽演奏といえるだう。ボールトの指揮するフィルハーモニア管弦楽団は、その音楽の記録を残しているのである。エードリアン・ボールト卿1889・4/8~1983・2/22の残したステレオ録音はすべてが両翼配置ではないのだが、多数残しているのは確かである。その意味で彼をフォローしておく価値があろう。  
 両翼配置という音楽は、ふつう、指揮者たちから煙たがられている言葉ではあるのだが、盤友人にとっては、大歓迎される音楽であって、オーディオ・システム向上と正比例して、親しむ言葉である。サイト・アクセス・フォロワーの皆さまの中でも、賛成派と反対派に分かれることであろうと推察する。いえることは、盤友人が育ったのは、ヴァイオリン群が束ねられた時代であっても、現在は、無条件に賛成派ということである。これは、音楽演奏行為が、舞台上での対話から成り立つことに気が付いたとき、それは、楽しいからと云うほかはない。  
 すなわち、モノーラル録音から、スピーカーふたつのステレオ録音に歴史は、アウフ ヘーベン止揚したのであることに、認識を深めるオーディオファンとのつながりが広まることを、切に希望する。だいたい、時代のキーワードは、つながり、ではないだろうか?そうすることにより、時代は回るよ、時代はまわる・・・・・


  いつもの食事で味噌汁、みなさんのだしは、かつお節派か、昆布だし派か?鰹節の時は沸騰したお湯に、さっと湯がくのが風味を際立たせて、そこで直ぐにすくってしまう。それに対して、昆布だしは、水から入れて沸騰し始めてから、掬い出すのが決め手であり、長々と煮出すのではない。我が家は、昆布だし派、そこで、話題としては、女系家族は、意外と鰹節派が多いらしいのだけれど、因果関係があるものやら、無いものやら。そこのところ、チェックしたいものである。  
 いつも、モダン楽器演奏によるレコードを聴いている中で、最近は、古楽器によるものも、普通に鑑賞できるようになった。エンシェント・ミュージック合奏団で、クリストファー・ホグウッドが指揮と通奏低音を担当している。ソロ・ヴァイオリン奏者達は、ヤープ・シュレーダーと、クリストファー・ハイロンズ、1981年頃録音のものでニ短調BWV1043を聴いた。  
 コントラバスは一丁、チェロとアルトは、それぞれ二丁である。ヴァイオリンは三人ずつ二群、協奏曲第一番と第二番で、通奏低音はハープシコード。ところが、二つのヴァイオリンのための協奏曲になると、それは聴こえてこない。第二楽章を聴いていて、なんとポジティフオルガン、室内用オルガンがコントラバスとユニゾンで聞こえてくるではないか!それが、魅力的である。  
 ソリスト達は、古楽器でも、名器やコピー・モデル、ヴィブラートなど、かけていない。すうっとよく伸びる楽音、モダン楽器に慣れた耳では、新鮮でそれはそれで聴き方があるというもの。バッハの音楽としては、このような音楽の可能性を追求するひとつの意味があろう。   
 二つのヴァイオリンが演奏するときは、その位置関係がどう聞こえるか興味がある。大多数のリスナーは、そこのところ、モノーラル的であって、スルーしている。ステレオ録音で、左側スピーカー、中央部、右側スピーカーとの間隔で、定位ローカリゼイションがその人のグレードによるだろう。システムを攻めて行って、高みを追求するとき、かならずや、そこのところが気になってくる。もちろんアバウトで気にしない人たちが多数派だろう。盤友人は、そこのところ、面白くなればなるほど、追求するのである。 シュレーダー、左側に聞こえて、右側にハイロンズが演奏しているのが鮮明になると、音楽的対話が浮き彫りにされてくる。もちろん、コントラバスと通奏低音の室内オルガンが聞こえてくるためには、努力が必要なのである。バッハの音楽性、宗教性、気高さがよく伝わる彼らの演奏を聴いて、オーディオはつくづく、音にではなく、音楽のためにという言葉、その経験を通じて、幸福感を味わえるもので、つくづく、その平和であることありがたくを、祈らずにはいられない。いい音とはオーディオ的登山で、頂上に到達することを目指して初めて、味わえるといえる。


だいたい音楽に関する常識が、二つはある。その一つ、作曲家が作曲するとき、小節などを数えるものではない、というもの。その次、音楽において、間が大変、重要であるというものだ。
 この二つとも、誰も否定することは、できない常識であろう。
 これを否定すると、変人扱いされるのが、オチというものである。常識というものは、大体において当てはまるものであっても、全部に当てはめて考えない方が、柔軟な思考というものではあるまいか?場合によっては、当てはまらないこともある!と考えるのが、盤友人の発信である。 なぜなら、ベートーヴェンの交響曲第五番ハ短調作品六十七の第一楽章で、501小節楽譜使用のSPレコード演奏記録を入手している。正確にいうと、復刻レコード、ならびに、コンバクトディスクを、いつも再生できるからである。すなわち、389小節目に、全休止のない音楽を鑑賞している。すなわち、現存する楽譜との不一致で、502小節を、否定する発信をし続けている。アレグロ・コン・ブリオとは、快速に、勇気をもって、という速度指定である。あの389小節目、全休止が有効な演奏速度は、急速なテンホであって、一段、速度を落としたアレグロの場合、あそこで、弦楽器群による間は、間延びしてしまうことになり、だから、それを避けるために、プレスト急速に近い設定がなされるというのが、現代の流行である。逆に言うと、ゆったり演奏するときに、全休止は不必要であるということだ。
 第一楽章で、124と125小節目は2小節全休止であり、盤友人とても否定しないことに注意する必要がある。一小節、一つ振りで音楽は演奏される前提である。その上で、全休止を小節ごとには振らないことも必要である。なぜなら、音を出さないのだから、振ってはならずに、頭の中でカウントするという前提なのである。 だから、間を一概に否定するのではあらず、389小節目の全休止だけを否定する。
 自筆楽譜に休止は書かれているから、というのではなく、426小節目から音楽は流れ出すという指摘は、議論の急所となる。それは、この音楽が提示部124を繰り返して、501小節足すならば、625小節、すなわち、5の4乗という節目が成立するということである。
 読者のみなさん、ニキッシュ、山田耕さく、クレツキ達は、あの全休止がないレコードを残している事実をよく、考えてください。ところが、クレツキ指揮するチェコ・フィルハーモニーの演奏は、全休止があり、諸井三郎氏、昭和26年の解説では501小節でありながら、翌年、全音楽譜社の解説で提示部、展開部、再現部あわせて374とし、終結部128で、合計502小節という、二種類の楽譜の存在を、証明している。ということは、どちらかを選択することが、演奏者達に要請されているのだから、502小節一辺倒の現代の在り方に、異説を発信し続けるのが盤友人なのであるということだ。501小節があっても良いのである。 
テンポ感のアレグロとは、こころよいという解釈も重要、だから、ゆったり感の演奏で間延びしない音楽こそ、要請される。そして、合奏難度ハードルが高いヴァイオリン両翼配置による音楽こそ、理想とするベートーヴェンの音楽、5、6、7という数字並びが、意味を発揮する。(笑)